「アート」への旅

私は仕事の関係で趣味にまとまった時間を費やすことができません。そんな現状ですが、時間を作っては絵を見たり、陶磁器を鑑賞したり、音楽を聴いたりして、人生を大いにエンジョイしております。旅行する機会は比較的多いので、日本各地、時には海外へ旅行した時には、当地の美術館や窯元を訪れて見聞を深め、鑑識眼を磨いております。音楽鑑賞はもっぱらクラシック音楽を演奏会やCDで聴くことですね。

 

見たり聞いたりするだけでは貴重な経験の多くが瞬く間に消えてしまいますので、そんな体験を拙い感想を交えてメモ風にまとめておきたいと思うようになりました。同じ絵画や焼物を見たり演奏を聞いたりしても、ある人は素晴らしいと思い、ある人はつまらないと感じる、そんな世界ですよね。

 

私はずぶの素人ですし、自分の審美眼がどの程度か自信はありませんが、駆け出しの頃に徹底的に叩き込まれた ”観察し記録する” ことにかけては人後に落ちない、との信念でおります。残念ながら ”見ているのに見えていない” ということが多いのは十分承知していますが...。また、できるかぎり良いもの、一流のものを見たり聞いたり、時には買い求めたりするよう努めてまいりました。


そんな私の目で見て耳で聞いた率直な印象を書きとめ、記録として残しておきたいというのがMISAO's Art Worldの主な目的ですが、「あ、私と同じ意見だわ」とか「この人変わっている」とか「今度行くとき参考にしよう」といった情報源の一つになれば望外の幸せです。

上の屏風絵は何れも国宝に指定されております左が長谷川等伯(1539~1610)「松林図屛風(左隻セキ)」(東京国立博物館)、右が尾形光琳(1658~1716)「燕子花カキツバタ図屛風(右隻)」(根津美術館)です。多くの教科書や書籍に掲載されていますし、TVでも時々紹介されますから、むしろ知らない人の方が少ないかもしれません。

 

下の書籍には「長谷川等伯は天下人の絵師として金碧障壁画にも腕を揮ったが、宋元画に学んだ水墨画も数多く残している。日本の画家が憧れた牧谿モッケイの画技に学びながら、それを一瞬突き抜けたかのような感がある。」「尾形光琳は京都有数の呉服商雁金屋の次男として生まれ、家に溢れていた華麗な衣装文様にごく自然に親しんだはずで、彼の生涯の作品を支えている抜群の装飾感覚、構図感覚はこのころに育まれた。狩野派を学ぶことから絵画修行を始めたが、彼の画風を大きく変え、決定づけてしまったのは、俵屋宗達の作品との出会いであった。宗達画がみずみずしい自由な闊達さにみちていたのに対し、光琳画においては研ぎすまされた鋭く理知的な意志の力が支配的である」と紹介されています。

 

ただ見ているだけの私ですが、水墨画の技法も琳派的表現法も現在に至るまでの数多くの作品に取り入れられているように感じます。あるTV番組で琳派を「simple and pure」と表現された先生がいらっしゃいましたが、それは松林図屛風にも当てはまるような気がいたします。

 

 

辻 惟雄 監修「日本美術史」株式会社美術出版社 2011年2月10日増補新装第9版

東山魁夷の風景画(上:唐招提寺襖絵〈山雲〉部分、「朝雲」「山湖遥か」「晴れゆく嶺」「山湖遠望」)

 

私に限らず東山魁夷画伯(1908-1999)の風景画に惹かれる人は多いと思います。山間の温泉宿から見た風景や車窓から見た景色、あるいは京都や奈良の町中でも、思わず「あ、東山(魁夷)」と画伯の絵を思い浮かべることがあるのですね。

 

私の場合は、青々とした木々に覆われた山並、そこに沸き立つ層雲・霧雲、そんな情景が東山魁夷という名称と関連付けられて脳裏に定着されているのです。何故そうなったか不思議ですが、画伯の絵にはそれだけのインパクトがあるということなのでしょう。

 

上の絵の取材先は奥飛騨(山雲)、吉野(朝雲)、雄阿寒岳山麓(山湖遥か)、奥穂高(晴れゆく嶺)、支笏洞爺国立公園(山湖遠望)ということです。私は以前「朝雲」を見て、「東山流心象風景画とでも呼びたいようなデザイン化された木々、画面全体を支配する深みのある何とも言えない東山ブルー、山肌の微妙な色彩の変化...」という印象を持ちました。

 

ノーベル文学賞受賞者川端康成(1899-1972)と東山魁夷画伯との親交はつとに有名ですし、川端康成の審美眼にも定評がありますね。その川端康成が東山絵画について「東山魁夷私感」として「東山魁夷代表画集」の序文に残しております。

 

「今の私には、東山さんの風景畫の敬虔が、しんしんと心にしみてゐる。」

「人々は東山さんの風景畫に、日本の自然を身にしみて感じ、日本人である自分の心情を見出して、靜かなやすらぎに慰められる。清らかないつくしみに温められる。」

 

川端康成永逝の1年前に発刊された画集で、東山芸術の核心をついているように思われます。それとともに川端の魂の現症が伺われるように感じました。同画集には河北倫明「東山魁夷の芸術」、吉村貞司「東山魁夷の世界」、東山魁夷「ひとつの道」も後書に掲載されております。

 

唐招提寺御影堂は2022年6月に大修理を終えましたが、画伯の絵画を紫外線から守るためにLED照明が設置されたという記事を拝見いたしました。日本の建物にもLED照明が一般的になっておりますし、紫外線を防ぐフィルムなども普及しておりますから、絵を飾るには良い環境になっているのでしょう。

 

東山ファンは一般にはリトグラフや版画を求めることが多いと思います。東山絵画は今日の明るい照明環境の下で見ても、いささかも古臭さを感じさないところが凄いと思います。また洋間にも和室にも違和感なく飾れますので、我が家では時々飾る場所を変えて楽しんでおります。

 

・「東山魁夷代表画集」 株式会社集英社 昭和46年11月25日発行

平山郁夫とシルクロード 薬師寺玄奘三蔵院壁画(部分) 西方浄土須弥山(左) 嘉峪関(右)

美術品を見るときに、作家の名前は最も重要な要素かもしれません。私の場合、展覧会に行っても、絵や陶磁器を見る前に、まず作家名に目が行くことも度々です。情報社会の現在では、ある作家を詳しく知りたいと思うと、まずネットで情報を収集し、もっと知りたければ必要な書籍をオーダーする...。数日で詳細な情報が得られる便利な世の中になっています。

 

もちろん古い時代の美術品は、例えば国宝の天目茶碗や喜左衛門や仏像・仏画などにおいても、作者不明のものが少なくありません。こうした場合には、作品の素晴らしさ(魅力)の他に、作られた年代、希少性、保存状態などが問題になるのでしょう。

 

一方、近代・現在の作品の殆どは作品と作者とが一緒に展示公開されますから、作品の優劣は当然ですが、作者の歩んだ道(来歴)、時代的な背景、人間性なども重要な要素になっているように思います。人によっては受賞歴も重要視するかもしれません。

 

私は興味ある作家が見つかると、色々な展示会に出かけて生の作品をできるだけ多く見るように致します。それと同時に情報収集も精力的に行います。展示会では、その作品が何歳ころに制作されたものかに注目して見るのが私流です...作品が年代ごとにどう変化するかが見たいのですね。作品には、制作された時代の作者の心身の状態や社会・家庭・住宅・経済環境などが反映されると考えられますから、私の場合は作品を見ながら頭の中では作者の姿を見ているようなものかもしれません。

超人 レオナール・フジタ

 

藤田嗣治画伯(1886~1968)は近代ヨーロッパ画壇で最も成功した日本人画家とされています。画伯の画業の一端を「レオナール・フジタとモデルたち」で拝見いたしました。そして凄まじいエネルギーに圧倒されました。

 

「乳白色の下地に極細の描線で描く独自のスタイル...浮世絵や日本画の技法をヨーロッパの伝統的な絵画の主題と様式の中に巧みに取り入れた...」という解説文は、以前より感じていた印象を再確認させてくれるものでした。

 

上・左の絵は東京美術学校在学中(22~3歳時)の「婦人像」で、品が良く、写実的で端正な作風のように感じます。中央は42~3歳の時の「犬のいる構図」(300x300cm)の一部分で、上記解説文に記載されている独自のスタイルで描かれています。右は76~77歳の「礼拝」(115x147cm)で、81歳で亡くなられましたから最晩年の作品といえます。

 

私は色々な画家の作品を拝見して、多くは晩年になると簡素な画面構成になるように感じておりました。失礼ですが”衰え”を感じることも正直ありました。一方、この「礼拝」はどうでしょう!大きな絵の隅々まで一点の乱れもなく入念に描かれております。信仰のなせる業でしょうか.....それこそ恐ろしいほどのパワーを感じました。凡人の私は彼我のあまりのエネルギーの差に打ちのめされ、この見事な大作の前で、ただただ立ち尽くすほかありませんでした。

陶磁器は生活必需品でもありますが、芸術作品・文化財として美術館や博物館などに収蔵されているものもあります。北大路魯山人をはじめ美食家の多くが器にも情熱を注ぐように、食と焼物とは切っても切れない関係にあります。同様のことがコーヒー、紅茶、お茶、お酒などの飲物にも言えますね。

 

高麗茶碗、楽茶碗、唐津焼のところでも記述いたしましたが、日本の焼物の歴史には豊臣秀吉(1537~1598)の起こした文禄慶長の役と茶道発展とが大きく関わっています。私はお抹茶が好きなこともあり、陶磁器の中では特に抹茶碗に強く惹かれてしまいます。

 

日本の国宝・重要文化財のうち、お茶碗は61碗あります。いわゆる唐物が20碗、高麗茶碗が12碗で、残り29碗が国焼茶碗になります。国焼茶碗29碗のうち、楽茶碗が約半数の14碗を占めており、長次郎(~1589)6碗、本阿弥光悦(1558~1637)6碗、道入(1599~1656)2碗です。美濃焼は9碗(志野4碗、黒織部と瀬戸黒が各1碗、天目茶碗3碗)、唐津焼は2碗、京焼は4碗で野々村仁清(生没年不詳)3碗と尾形乾山(1663-1743)1碗になります。

 

千利休(1522~1591)が長次郎に焼かせた楽茶碗は今日まで400年以上脈々と受け継がれており、作品と作者とが概ね対応する点は貴重ですね。楽茶碗誕生当時と比べ、お抹茶を頂く場所は一般に明るくなっている思います。利休が今日の住環境を見通していたとは思いませんが、明るい室内でも楽茶碗はとても映えるのですね。

 

ところで上にあげた長次郎作の黒楽茶碗6碗のうち皆様はどれがお好みでしょう。[ムキ栗」「俊寛」「大黒」は重要文化財に指定されておりますが、「まこも」「面影」「千声センセイ」も美術館に所蔵されているだけに何れ劣らぬ魅力がありますね。長次郎作の他の重要文化財指定お茶碗は黒茶碗「東陽坊」(個人像)、赤茶碗「太郎坊」(今日庵)、赤茶碗「無一物」(穎川エガワ美術館)があります。