プロローグ

私が焼物に惹かれるようになったのは、身近に焼物好きがいたという環境によるのですね。あれこれ一緒に見ているうちに何となく興味が湧き、「勉強しては、また見る」、この繰り返しを随分いたしました。陶磁器の良いところは、特別深い知識がなくても良いか悪いかが直観である程度わかる、という点もありますね。

 

作品を鑑賞する際、誰でも初めは「見ても見えない」という状況が多いと思います。目の付け所が分からないのですね。私の場合観察する心は何時も一緒ですが、本を読んだり耳学問で知識が増えてくると、当然見る目も変わってきます。しかし、よい目が持てるかどうかは、多分にその人の才能にもよるのでしょうね。

 

焼物というのは一種の麻薬のようなものかもしれません。どんどん深みにはまるような...それだけ魅力があるものなのですね。魅力的な作品は、作者が全身全霊を捧げて作り上げた、その魂が乗り移っているからでしょう。信長も秀吉も幾多の戦国武将も、もしかしたら焼物中毒にかかっていたのでは....。

 

日本の一般家庭は欧米の豪邸のような広さがありません。そうした住環境でも、陶磁器は比較的スペースを取らないので収集しやすいという利点がありますね。そんなこんなで、今後も私の焼物への傾倒は長らく継続するように思われます。

陶磁器で国宝に指定されているものは14点あります。窯変天目茶碗3碗、油滴天目茶碗、玳玻天目茶碗、青磁鳳凰耳花生、飛青磁花生、青磁下蕪花生、大井戸茶碗「喜左衛門」、秋草文壺、色絵藤花文茶壺、色絵雉香炉、白楽茶碗「不二山」、志野茶碗「卯花墻」。14点中、8点が中国、1点が朝鮮、5点が日本(内2つが仁清)となります。抹茶碗が8碗あり、5碗が中国、1碗が朝鮮、2碗が日本で、国宝に占める抹茶碗の比率が大変高いことが分かります。

 

陶磁器の技法は、中国・朝鮮を経て日本に伝わったものが多いことはよく知られています。抹茶碗については、一井戸、二萩、三唐津と言われています。萩焼にしても唐津焼にしても朝鮮人陶工から発しているのですから、ルーツは高麗茶碗であり、三者に類似性があることは間違いないでしょう。一方、桃山陶と楽茶碗は日本独自のやきものという意味合いがあります。

 

志野は16世紀末に美濃で焼かれ、長石釉の白色、筆に鉄釉をつけて模様を描く(鉄絵)、という今まで日本にはなかった革新的な2つの技法が用いられているということです。楽茶碗は古くは今焼茶碗、宗易形の茶碗、聚楽焼茶碗、長次郎茶碗などの別名がありました。千利休が長次郎に作らせた、桃山陶とは全く異なる、”手づくね”の”千利休の茶碗”として理解されています。「卯花墻」と「不二山」が国宝に指定された理由の一端が分かりますね。

 

国宝ともなるとガラス越しの鑑賞になりますから、ある程度雰囲気は分かりますが、例えば高台や見込を見たくても十分な観察はできません。絵画や書などは視覚情報だけで満足できるところもありますが、陶磁器となると手で触って...といったところもありますよね。近年のデジタル技術の発達で、3D画像は勿論のこと、重さまで分かるヴァーチャル・リアリティなども開発されているのかもしれません。