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楽山焼
松江お抹茶飲み歩き、楽山焼茶垸
阿漕焼
紀州焼那智黒茶碗
割山椒の向付
国宝松江城、出雲大社、足立美術館への二度目の旅に行ってまいりました。松江は大名茶人である七代藩主松平治郷(はるさと:号 不昧)(1751~1818)のお膝元であり、茶道をはじめとする芸術文化が栄えた町です。観光施設が多いうえに、和菓子は美味しいし、食材も豊富ですから、私のようなリピーターは多いのではないでしょうか。
松江城の天守閣から下って城下の散策を致しますと、ほとんどの施設にお抹茶席が設えてあります。まず松江歴史館で松江城と城下町の概略をインプットし、大広間で現代の名工・伊丹二夫氏作の上生菓子とお抹茶でひと休憩。三畳台目(だいめ)の伝利休茶室もありますよ。
次に明々庵に行きました。坂道を少し上ると松江城を遠望することが出来ます。茅葺、入母屋造り、二畳台目の茶室には不昧公筆「明々庵」のお軸が掛けられています。訪問客は少数で、静寂に包まれて散策できました。敷地内の百草亭に移って、松江定番のお菓子とお抹茶を頂きました。お茶碗は楽山焼当代の作品で、販売もしておりました。
先回は行けなかった田部美術館もゆっくり見学できました。不昧公ゆかりの美術品や楽山焼と布志名(ふじな)焼の名品が多いことで有名です。今までに楽山・布志名を見たことはなく、下調べもしませんでしたから、見てはいても後頭葉にとどまった情報はごくわずかだったように思います。喫茶室では現代作家のお茶碗でお抹茶を頂きました。
宿泊先に帰る道すがら、京橋川の川沿いの和菓子屋さんでお土産を購入致しました。色々思案していたら結局大量に購入することになりました...宅配便で送ってもらうほかありませんね。お店の方にお菓子とお抹茶をサービスしていただき、満足満足。帰宅後にお土産を配りましたが、どこの評価も「美味しい、美味しい」の三重丸でしたよ。
共箱蓋表 楽山焼 茶垸
共箱蓋裏 長岡住右エ門
(口径14cm・高さ7.7~7.9cm・高台径5.4cm・重量293g)
(腰に「空味」刻名)
松平不昧の指導で発展した楽山焼と布志名焼は総称して出雲焼と呼ばれています。両者は歴史的に人的交流があり、兄弟釜のような関係にあります。このあたりのいきさつは下記書物に詳述されております。
楽山焼は松江藩二代綱隆が親戚関係にあった毛利家に依頼し、1677年長門の萩藩陶工倉崎権兵衛重由が出雲へ入国したことから始まります。楽山焼は萩焼の流れをくむのですね。古くは伊羅保、刷毛目、斗々屋茶碗に優品が多かったようです。一時楽山焼は衰退しますが、1756年布志名の土屋善四郎芳方を楽山焼復興に当たらせ、布志名焼が衰えると不昧公は芳方を布志名へ移して土屋窯を築かせ、楽山窯には初代長岡住右衛門貞政を登用します。
貞政には跡継ぎがなく、布志名焼の二代土屋善四郎政芳の次男を後継に向えました。二代長岡住右衛門空斎はそれまでの伊羅保や刷毛目に加えて京焼風の色絵技法を取り入れ、楽山焼に変革をもたらしました。四代長岡住右衛門空味は「楽山中興の祖」といわれております。
写真は四代長岡住右衛門空味作の楽山焼茶碗です。楽山焼の伝統である「伊羅保写し」でしょうか。元は素直な形状ですが、高台まわりを削り、秀でた轆轤の技術により轆轤目を大胆に施して変化をつけています。釉景色は多彩で、枇杷色の肌に褐色が重なったうえに、灰色がかった自然釉が雨粒のごとく降りかかり、見込には太い内刷毛(白刷毛)が一筋掃かれている。高台の兜巾は高く、端正な巴に削りだされています。
他のお茶碗と一緒に使用したときには、失礼ですが少し野暮ったい感じにみえました。その後単独で何度か使ってみますと、考え抜かれた造形に手取りの良さ、何とも言えない素朴な味わいがあって、すっかり気に入ってしまいました。侘び茶の心でしょうか...さすが松平不昧公地元のお茶碗ですね。
文献
河野良輔 著「陶磁大系 全48巻 第14巻 萩 出雲」株式会社平凡社 1975年12月1日
相賀徹夫 編著「探訪日本の陶芸5 萩 出雲ー山陰」株式会社小学館 1980年5月10日
松江歴史館 編集/発行「千変万化の出雲焼」2017年4月21日発行
共箱 蓋表 阿漕茶盌 箱書 阿漕盌
(口径12cm・高さ7.2cm・高台径5.4cm・重量259g)
(高台内に「阿古ぎ」印銘)
阿漕焼は三重県の焼き物で、倉田旧八(久八)が津藩の命により安東焼を再興すべく1853年に津市船頭町に築窯し、阿漕浦に近いので阿漕焼と言われました。この船頭町阿漕は1887年頃廃窯し、その後は土手阿漕(1900年廃窯)、会社阿漕(1905年廃窯)、小島阿漕(1908年廃窯)、上島阿漕(1922年廃窯)、重富阿漕(1925年廃窯)と再興を試みましたが上手く行かず、1931年に伊賀出身の福森円二が招聘されて阿漕焼を再興させました(1977年76歳で没)。
写真は東美アートフェアに出かけた時に、お手頃価格だったので購入した阿漕茶碗です。阿漕焼については全く知識がなかったのですが、軽くて手持ちが良くて、普段使いに気兼ねなく使えそうだったのが購入の理由でした。
馬盥(ばだらい)形というには腰が立っていて深さがあります。半筒形の口径を広くし、高さを低くした形状とでもいうべきでしょうか。胴と見込みに綺麗に轆轤目が入っていて、このお茶碗の造形の要になっています。茶溜りには巴模様も見えますね。
腰から高台は土見になっていて、白土に小石が混じっているのが確認できます。釉掛けの部分にも小石の粒が出ていて、面白い手触りになっています。胴と見込みに薄く掛けられた透明釉が明るい枇杷色に変化しており、口縁から胴に向けてベージュの釉掛けをした先が幕釉になっていますね。
高台は整った形のやや撥高台風に丁寧に削り出されています。一方、高台内には大胆な削りを入れ、小さい兜巾がみえます。畳付けにもヘラ削りを施して変化をつけていますね。高台内の印銘「阿古ぎ」は、ネットに同様のものがアップされているのを見ました。それは1940年頃焼成された物のようですから、このお茶碗も同時期に焼かれた物かもしれません。
共箱 箱書「紀州焼那智黒茶碗 栖豊作」 (腰に「栖」刻印)
(口径13cm・高さ9cm・高台径5.5cm・重量303g)
那智黒茶碗を最初に目にしたのは、高野山詣でをしたときに宿泊した宿坊のお土産物売り場でした。鍵のかかった展示棚に他のお茶碗と一緒に陳列されておりました。なんとなく惹かれてよくよく見ると、他の手頃な価格のお茶碗とは〇が一桁違いました...。
初代寒川栖豊 (1899~1975) は大阪に生まれ、京都伏見桃山で沢田宗山に陶芸を学び、愛知県窯業研究所長を経て、1932年和歌山県の高野口小田原に開窯しました。1937年に旧紀州藩主徳川頼貞侯より紀州焼の復興を託され、「紀州焼 葵窯」の窯名を送られました。その後の戦乱期を乗り越え、那智黒の石を精製して1956年に独自の那智黒釉を完成させました。1967年に白浜町に登窯を築窯し、現在は二代栖豊に引き継がれています。那智黒石は三重県熊野市で採掘される珪質粘板岩で、硯や碁石に使用されていますね。
写真は初代寒川栖豊作の那智黒茶碗です。那智黒釉は艶消しされた深い黒色と柚子肌を特徴としており、手持ちすると独特の感触があります (特に水に浸してみると一層強く感じられます)。三か所で腰に富士山型の締めを入れた輪形 (りんなり)で、姥口の口縁は五岳をなし、見込みには幾分変化をつけた茶溜りが彫り込まれています。高台は一般的な巴の輪高台になっています。釉調が均一で変化に乏しい分、形状に変化を持たせているのでしょう。
実際に使用してみると、マットな黒色と抹茶のグリーンとの相性は言わずもがな、手触りや飲みごごちも大変結構でした。洗いも容易です。那智黒茶碗を作成するときに当然黒楽茶碗や瀬戸黒茶碗は意識したのでしょうが、差別化・独自性は十分達成されており、それは大変なことだと思いました。
ある展示会で割山椒の器を衝動買いしました。作家の先生がその場においでになって色々お話を伺うと、ついつい欲しくなってしまいますね。手ごろな価格であることも重要な要素ですが...。
山椒はウナギを食べるときにつきものですが、街中に住んでいますと実際にどんな植物なのか見る機会がありません。ネットで調べてみますと、「山の薫り高い実」であることから山椒と命名され、別名ハジカミ(椒)・なるはじかみ(成椒)・ふさはじかみ(房椒)、房状に実がなる・はじける、辛い(=かみら)もの、の意味で、日本と朝鮮半島南部に分布しており、実山椒の80%は和歌山県で収穫されるようです。
山椒は若芽・若葉(木の芽)、花(花山椒)、未熟な果実(青山椒・実山椒)、熟した実の皮の粉末(粉山椒)と、日本料理や四川料理に使われているほか、薬用にも利用されているのですね。
割山椒の器は、下の写真のように身が弾けた山椒をイメージしているようです。3枚の花弁が開いたような形と表現する方が正確なように思えますが、向付として使うには割山椒と呼ぶほうが季節感が出て風雅に響くのでしょうか。
器としては変化に富んだ形状をしており、日本料理を盛り付けるのに適していると思います。ヘラで切る場合には、かなり技巧を要するのでしょうか....一つ一つに特徴があり、手作りの温かさが感じられます。当家では和え物や珍味に使用しております。