私の高麗茶碗入門

一井戸、二楽、三唐津といわれるように、茶道における高麗茶碗の地位は揺るぎのないものです。私が最初に抱いた高麗茶碗への印象・先入観は「超高価で庶民には手の届かない縁遠いもの」でした。しかし色々勉強してみると、総てが超高価というわけではないのですね。これまでに美術館で多くの高麗茶碗をガラス越しに拝見してまいりましたが、本当の意味での私の高麗茶碗入門は書物を読むことから始まったといえるでしょう。

 

高麗茶碗が茶会記に初めて登場するのは1537年の「松屋会記」で、1577年頃から登場する頻度が増え、これは村田珠光(1423-1502)、武野紹鴎(1502-1555)、千利休(1522-1591)による侘茶の思想の広まりと関連していることは既に広く知られています。この高麗茶碗は朝鮮王朝時代(1392-1910) の15世紀から18世紀初めまでに主に朝鮮半島南部(特に慶尚南道の海に近い地域)の民窯で作られた茶碗で、茶の湯で抹茶を喫するために日本の茶人に見立てられたか、または日本人が関わったり日本から注文されて製作された器とされています。

 

すなわち16世紀中頃までに作られたものは茶の湯とは全く関係なく焼成された民衆の日用品(一部は祭器)で、それまで主に使用されていた唐物(多くは天目茶碗)に変わって茶の湯のために取り上げられました。歴史も古く、数的には少数ですから、希少価値は圧倒的に高いのですね。その後、日本人が直接・間接に関わって民窯(従来窯、借用窯)または対馬藩が釜山に設けた倭館窯(1639-1718)で大量に製作されました。したがって現存している高麗茶碗の多くは後者になりますね。

 

高麗茶碗は種類が多くて複雑ですが、江戸時代末までには分類が完成し、実物を拝見したことはありませんが「大正名器鑑」に詳しい記述がなされているようです。見立てられたものとしては雲鶴、狂言袴、三島、刷毛目、粉引、堅手、雨漏、井戸、蕎麦、斗々屋、柿の蔕、玉子手、熊川、呉器、割高台があり、日本向けに製作されたものとしては御所丸、伊羅保、彫三島、金海、御本、半使があるようです。入門書にも写真入りで分かり易い記述がありますから、水先案内としては十分だと思います。

 

大ざっぱな事項は入門書で理解できました。一方、十分に解明されていない事柄が多いことも分かりました。例えば大井戸茶碗の窯跡については、今だに統一した見解がないようです。茶人に見立てられた高麗茶碗が生産された15~16世紀の朝鮮では、朝鮮王朝が管理する王朝管理窯と、その指定から外れた地域窯とがあり、地域窯が高麗茶碗を生産していたと考えられています。現存する記録の殆どは王朝管理窯に関するもので、地域窯に関するものは皆無のようです。当時の窯跡は、磁器所・陶器所の総数としては慶尚道、全羅道、忠清道、京畿道が多く、王朝管理窯としては陶器所を含め京畿道、忠清道が多かったようです。

 

日本と朝鮮との交易については、朝鮮に上陸した使節は三浦(富山浦:釜山 1407~1592、乃而浦:鎮海 1407~1544、塩浦:蔚山 1427~1510)の倭館に滞在し、上京許可が下りると慶尚道・忠清道・京畿道を経由して漢陽(ソウル)に至ります。漢陽での市場で公的・私的貿易を行い、また倭館でも市場が開かれており、交易を行って日本に帰国したのです。1547年以降は釜山だけに倭館が限定され(富山浦倭館:子城台、豆毛浦倭館1万坪:佐川洞 1607~1678、草梁倭館10万坪:南浦洞 1678~1816)、対馬藩が交易を独占するようになりました。

 

対馬藩の独占が成立してからは、交易は主に倭館での市が主体になりました。ここでは公貿易と私貿易とがあり、陶磁器は少なくても公貿易の品目にはリストアップされていなかったようです。地域窯の焼き物は行商人(「褓負商」と称されている)によって市へ持ち込まれ、その中から日本人によって「高麗茶碗」が見立てられた可能性が指摘されています。

 

ところでネットの普及により、ネットオークションは隆盛を極めています。かくいう私も、新品・中古を問わず欲しい物品があると、ネットで色々なサイトを見に行き、そこの価格を参考にして決めることも少なくありません。いわゆる「高麗茶碗」もネットオークションには多数出品されていますが、玉石混交なのでしょうか....。お宝がそうそう手ごろな価格で手に入るとは思えませんから、普通に考えると信頼のおけるお店で、それなりの価格で購入するのが賢明なのでしょうね。

「高麗茶碗」と改まっていうと何だか縁遠いように感じますが、現代作家の作品や観光地の土産物屋さんに並んでいる抹茶碗にも高麗風の茶碗が少なくありません。日本の茶道の歴史は400年以上もあり、その間に抹茶を喫するためのお茶碗は星の数ほど考案されて今日に至っているわけです。その一番最初のほうに天目や高麗茶碗は位置していますから、形状だけからいえば現在作製されている作品の多くもそれらに類似していて当然ですね。

 

 そういうわけで、高麗茶碗は現在の抹茶碗の一方の原型をなしているといえます。もう一方が楽であり桃山陶ということになるのでしょう。

 

抹茶を喫するための器という点では、形、色、外観、持った時の手触り、重さ、抹茶の緑との相性、口にした時の感じ、飲み終わった後の茶溜まりの表情、洗って収納するときの具合、実に多くの要素があります。私は実用的な茶碗しか求めませんから、お茶を点て、喫し、洗って、と実際に使ってみての評価になります。これは店頭で見た時の印象とは残念ながら違うことも多いのですね....。

 

お茶が入っていない状態で観察するときには、まず外観を見ることになるのでしょう...外を全周ゆっくりと眺め、次いで見込を見て、ひっくり返して高台を点検して...窯キズや釉薬の削げも気になるし...。一方、お茶を点てた時はどうでしょう。茶碗の外観を大ざっぱに見て、抹茶の泡立ち具合はどうか、抹茶と見込の表情とのコントラスト、飲み終わった後の茶溜まりの様子...見ている所は大分違うのですね。

 

お茶を頂く回数が多くなるほど、実際に使用したときの印象のほうが大事に思えてくるものですね。お茶碗の価格とは決してパラレルではありません。実物を手に入れて使用してみないと分からないところもありますが、経験を積むことによって「もし手に取ってみることが出来ればある程度推測できる」と現在は感じております(もちろんネットでは無理です)。こうなるまでには随分勉強代もかかりました...。

参考文献

高橋義雄 編集「宝雲舎版 大正名器鑑(大正10年~昭和元年初版、昭和12年3月普及版) 復刻     

 

                  版」五月書房出版 昭和50年

浅川伯教 著「釜山窯と對州窯」彩壺會 昭和5年7月25日

浅川伯教 著「朝鮮古陶磁論集 1,2」山梨県北杜市 2017年3月20日発行

浅川 巧 著「朝鮮陶磁名考(昭和6年9月5日初版)」「小品集」八潮書店 昭和53年12月25日

ヘンドリック・ハメル 著 生田 滋 訳「東洋文庫132 朝鮮幽囚記」

                      株式会社平凡社 1969年2月20日発行

 

高島鳴鳳 著「東国の礎石:文禄・慶長の役」新報印刷株式会社 1976年4月1日発行

高崎宗司 著「朝鮮の土になった日本人 浅川巧の生涯」株式会社草風館 

                         1982年7月15日初版発行

茶道資料館 編集・発行「高麗茶碗」1989年10月13日発行

茶道資料館 編集・発行「高麗茶碗ー御本とその周辺ー」1990年10月10日発行

林屋晴三 責任編集「高麗茶碗」全5巻 中央公論社 1991~92年

小田栄一 編集「茶道具の世界2 高麗茶碗」株式会社淡交社 1999年12月20日発行

赤沼多佳 執筆・編集「日本の美術 第425号 高麗茶碗」至文堂 2001年10月15日発行

高麗茶碗研究会 編集「高麗茶碗-論考と資料」株式会社河原出版 2003年5月1日発行

李 義則 著「陶磁器の道:文禄・慶長の役と朝鮮陶工」有限会社新幹社 2010年9月1日発行

田代和生 著「新・倭館―鎖国時代の日本人町」株式会社ゆまに書房 2011年9月2日発行

谷 晃 著「わかりやすい高麗茶碗のはなし」株式会社淡交社 2014年2月22日発行

松山龍雄「炎芸術No.122 高麗茶碗の古典と現代」阿部出版株式会社 2015年5月1日発行

赤沼多佳 竹内順一 谷 晃 監修 降矢哲男 責任編集「茶の湯の茶碗 第二巻 高麗茶碗」

                                                            株式会社淡交社 令和5年2月23日 初版発行