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私の高麗茶碗入門
マイ・フェイバリト
現代作家の高麗茶碗
陶磁器と「文禄慶長の役」
対馬藩と高麗茶碗
浅川伯教・巧 兄弟と朝鮮陶磁
一乗谷朝倉氏遺跡
参考図書
一井戸、二楽、三唐津といわれるように、茶道における高麗茶碗の地位は揺るぎのないものです。私が最初に抱いた高麗茶碗への印象・先入観は「超高価で庶民には手の届かない縁遠いもの」でした。しかし色々勉強してみると、総てが超高価というわけではないのですね。これまでに美術館で多くの高麗茶碗をガラス越しに拝見してまいりましたが、本当の意味での私の高麗茶碗入門は書物を読むことから始まったといえるでしょう。
高麗茶碗が茶会記に初めて登場するのは1537年の「松屋会記」で、1577年頃から登場する頻度が増え、これは村田珠光(1423-1502)、武野紹鴎(1502-1555)、千利休(1522-1591)による侘茶の思想の広まりと関連していることは既に広く知られています。この高麗茶碗は朝鮮王朝時代(1392-1910) の15世紀から18世紀初めまでに主に朝鮮半島南部(特に慶尚南道の海に近い地域)の民窯で作られた茶碗で、茶の湯で抹茶を喫するために日本の茶人に見立てられたか、または日本人が関わったり日本から注文されて製作された器とされています。
すなわち16世紀中頃までに作られたものは茶の湯とは全く関係なく焼成された民衆の日用品(一部は祭器)で、それまで主に使用されていた唐物(多くは天目茶碗)に変わって茶の湯のために取り上げられました。歴史も古く、数的には少数ですから、希少価値は圧倒的に高いのですね。その後、日本人が直接・間接に関わって民窯(従来窯、借用窯)または対馬藩が釜山に設けた倭館窯(1639-1718)で大量に製作されました。したがって現存している高麗茶碗の多くは後者になりますね。
高麗茶碗は種類が多くて複雑ですが、江戸時代末までには分類が完成し、実物を拝見したことはありませんが「大正名器鑑」に詳しい記述がなされているようです。見立てられたものとしては雲鶴、狂言袴、三島、刷毛目、粉引、堅手、雨漏、井戸、蕎麦、斗々屋、柿の蔕、玉子手、熊川、呉器、割高台があり、日本向けに製作されたものとしては御所丸、伊羅保、彫三島、金海、御本、半使があるようです。入門書にも写真入りで分かり易い記述がありますから、水先案内としては十分だと思います。
大ざっぱな事項は入門書で理解できました。一方、十分に解明されていない事柄が多いことも分かりました。例えば大井戸茶碗の窯跡については、今だに統一した見解がないようです。茶人に見立てられた高麗茶碗が生産された15~16世紀の朝鮮では、朝鮮王朝が管理する王朝管理窯と、その指定から外れた地域窯とがあり、地域窯が高麗茶碗を生産していたと考えられています。現存する記録の殆どは王朝管理窯に関するもので、地域窯に関するものは皆無のようです。当時の窯跡は、磁器所・陶器所の総数としては慶尚道、全羅道、忠清道、京畿道が多く、王朝管理窯としては陶器所を含め京畿道、忠清道が多かったようです。
日本と朝鮮との交易については、朝鮮に上陸した使節は三浦(富山浦:釜山 1407~1592、乃而浦:鎮海 1407~1544、塩浦:蔚山 1427~1510)の倭館に滞在し、上京許可が下りると慶尚道・忠清道・京畿道を経由して漢陽(ソウル)に至ります。漢陽での市場で公的・私的貿易を行い、また倭館でも市場が開かれており、交易を行って日本に帰国したのです。1547年以降は釜山だけに倭館が限定され(富山浦倭館:子城台、豆毛浦倭館1万坪:佐川洞 1607~1678、草梁倭館10万坪:南浦洞 1678~1816)、対馬藩が交易を独占するようになりました。
対馬藩の独占が成立してからは、交易は主に倭館での市が主体になりました。ここでは公貿易と私貿易とがあり、陶磁器は少なくても公貿易の品目にはリストアップされていなかったようです。地域窯の焼き物は行商人(「褓負商」と称されている)によって市へ持ち込まれ、その中から日本人によって「高麗茶碗」が見立てられた可能性が指摘されています。
ところでネットの普及により、ネットオークションは隆盛を極めています。かくいう私も、新品・中古を問わず欲しい物品があると、ネットで色々なサイトを見に行き、そこの価格を参考にして決めることも少なくありません。いわゆる「高麗茶碗」もネットオークションには多数出品されていますが、玉石混交なのでしょうか....。お宝がそうそう手ごろな価格で手に入るとは思えませんから、普通に考えると信頼のおけるお店で、それなりの価格で購入するのが賢明なのでしょうね。
「高麗茶碗」と改まっていうと何だか縁遠いように感じますが、現代作家の作品や観光地の土産物屋さんに並んでいる抹茶碗にも高麗風の茶碗が少なくありません。日本の茶道の歴史は400年以上もあり、その間に抹茶を喫するためのお茶碗は星の数ほど考案されて今日に至っているわけです。その一番最初のほうに天目や高麗茶碗は位置していますから、形状だけからいえば現在作製されている作品の多くもそれらに類似していて当然ですね。
そういうわけで、高麗茶碗は現在の抹茶碗の一方の原型をなしているといえます。もう一方が楽であり桃山陶ということになるのでしょう。
抹茶を喫するための器という点では、形、色、外観、持った時の手触り、重さ、抹茶の緑との相性、口にした時の感じ、飲み終わった後の茶溜まりの表情、洗って収納するときの具合、実に多くの要素があります。私は実用的な茶碗しか求めませんから、お茶を点て、喫し、洗って、と実際に使ってみての評価になります。これは店頭で見た時の印象とは残念ながら違うことも多いのですね....。
お茶が入っていない状態で観察するときには、まず外観を見ることになるのでしょう...外を全周ゆっくりと眺め、次いで見込を見て、ひっくり返して高台を点検して...窯キズや釉薬の削げも気になるし...。一方、お茶を点てた時はどうでしょう。茶碗の外観を大ざっぱに見て、抹茶の泡立ち具合はどうか、抹茶と見込の表情とのコントラスト、飲み終わった後の茶溜まりの様子...見ている所は大分違うのですね。
お茶を頂く回数が多くなるほど、実際に使用したときの印象のほうが大事に思えてくるものですね。お茶碗の価格とは決してパラレルではありません。実物を手に入れて使用してみないと分からないところもありますが、経験を積むことによって「もし手に取ってみることが出来ればある程度推測できる」と現在は感じております(もちろんネットでは無理です)。こうなるまでには随分勉強代もかかりました...。
黄伊羅保茶碗 (口径13.3~13.8cm・高さ6.8~7.2cm・高台径5.3cm・重量230g)
箱 桑木地 蓋表「黄伊羅保」銀粉字形
蓋裏 貼紙「さまざまに こころぞとまる
宮城野は 花の色々 虫乃声々」 小堀宗明 筆・印
覆紙「黄伊羅保茶盌 宮城野 宗明和歌」
伊羅保茶碗は高麗茶碗の中では人気があるものの一つです。伊羅保には古伊羅保、黄伊羅保、片身替伊羅保、釘彫伊羅保などの種類があります。このうち黄伊羅保、釘彫伊羅保は従来窯では確認できず、梁山(ヤンサン)の借用窯で焼き始められたと推測されています。倭館に釜山窯が成立する以前に焼かれたと推測さていますから、400年程は経過しているのですね。
大正名器鑑には「猶ほ此茶碗に就て、我が茶人中に不思議なる習慣あるは、其素質の粗雑なるに關せず、微細の疵をも之を厭ひ、他の井戸茶碗とに於て、竪樋又は疵繕ひなどを意とせざるに反して、伊羅保に於ては、最も厳重に之を嫌忌し、疵の有無の價格に關係する、他の茶碗と同日の談に非ざるは、素質の粗雑なるが故に殊更其保存の完全を期する意味にてもあらんか。」とあります。
黄伊羅保茶碗の形は一定しており、「高麗茶碗-論考と資料」によると、寸法は口径13.5~14.5cm・高さ7cm前後・高台径5.5cm前後のものがほとんどで、重量は240~275gが多いようです。松平不昧公が所持していた「女郎花」や茶道具商の重鎮戸田鍾之助氏所蔵の「橘」がしばしば引用されています。黄伊羅保は他の伊羅保茶碗と比べて小型軽量ですから、一般にはお薄用なのですね。
この黄伊羅保茶碗も多くの伝世品とほぼ同じサイズですが、若干軽量なのは薄作のためでしょう。末広形で、高台は竹節に削られ、輪高台の内には小さく低い兜巾があります。高台脇にヘラ削りが一回り入り、伊羅保肌の腰から胴には繊細な水挽の跡がみられ、一ヶ所火間も出ています。外側口縁近くに筋目が立ち(「玉縁」というそうです)、口縁には樋口(とよぐち:手で平にならすこと)・べべらが見て取れます。畳付には砂状の目跡が四つ残っていますが、見込みの目跡はハッキリいたしません。薄造りなためか、懐は深く感じますね。
何といっても見込みの明るくて爽やかな黄色い肌が魅力的です。さらに黄色の色合いも複雑で多彩です。そして地肌は特有のイライラした手触りで変化に富んでいます。見て、触って、鑑賞するだけでも十分楽しめるのです。「韓国で作られた古い伝世品の伊羅保と同じ茶碗を現在の日本で作るのは至難の業といってよいでしょうし、このことは伊羅保に限ったことではなく高麗茶碗全般についてもいえることです」という谷 晃 先生の記述(参考文献参照)は十分うなずけます。
実際にお茶を点ててみますと、お抹茶のグリーンが引き立ちます。飲み終わった後にお薄の流れ落ちる様、切れ、も良好です。畳付と高台内はさすがに歴史を感じますが、その他は400年経っているとは思えない色艶で、それはそれは大切に扱われてきたことでしょう。遠州流十一世小堀宗明宗匠(1888~1962)により、「堀川百首」源 俊頼の歌から「宮城野」の歌銘が添えられています。
高麗茶盌 (口径12.4~12.6cm・高さ8.9cm・高台径5.0cm・重量302g)
箱 桐木地 蓋表 「高麗 茶[石完(わん)] 一花」 墨書
蓋裏 「木がくれを 志らでや風の 残すらん
若葉乃中に 混じる一花」 墨書 田村堯中 筆・印
覆紙 「高麗茶盌 銘 一花 箱 堯中」
総釉掛けで熊川形の端正な形のお茶碗です。胴がふっくらして口縁が端反りのため、手持ちが良くて嬉しいですね。高台は素直な輪高台で、兜巾が僅かにみられます。目跡は畳付に微かに四ヶ所みえ、見込みにはありません。高台脇は滑らかで、腰に一回りシャープなヘラ削りが入り、胴の繊細な轆轤目へと移っていきますから、目を楽しませる工夫も十分です。見込みを見ると、茶溜りにはうっすら巴模様も入っていますね。
オレンジがかった枇杷色とその上に薄いブルーをかけたような色調が背景となり、そこに濃い青色の模様が浮かんでいます。この濃青色の窯変は「小川の流れ」「池」にも見えてチャームポイントのように思います。また白い釉溜りが胴には玉状に散り、腰から高台には雪崩れていて本当に多彩ですね。
[石完(わん)]の漢字は主に青瓷のお茶碗に用いられたということです。高麗茶碗に小堀遠州が書付したものを拝見しますと、専ら茶[石完]と墨書されているようですから、遠州流のお作法になっていたのかもしれませんね。
蓋表には「高麗茶碗」と書かれておりますが、購入時は「御本茶碗」と紹介されました。大正名器鑑には「古來茶人は分類不明なる茶碗を、単に高麗焼又は高麗物と稱して、後世の批判を避くるを常とし」「高麗の名稱は、比較的多數多様の朝鮮茶碗を包含し、又殊に支那窯の感化を受けたる陶器をも、其中に見出すこと多しと知る可きなり」の記載があります。
とても綺麗でモダンなお茶碗です。「倭館関係の初期のお茶碗には”高麗茶碗”と箱書してある」との記述もありますので、あるいは倭館窯の初期の焼成かもしれません。御本茶碗は極めて多様で膨大な量が焼かれたようですから、もしかすると見たこともないような作風のお茶碗に出会えるかも....秘かにそんな思いも抱きました。
蓋裏には遠州流8世家元・小堀宗中(1786~1867)の門下で上野寛永寺代官を務めた旗本、田村堯中により歌銘が添えられています。明るい枇杷色に玉状の釉溜まりのある景色を見立てたもののようです。遠州流は「わび・さび」に美しさ・明るさ・豊かさを加えた「綺麗さび」が特徴で、客観性の美・調和の美を作り上げました。このお茶碗もその流れに適ったものでしょうか...。
高麗茶碗の美術書を見ますと、箱の蓋裏に和歌が添えてあるものを時々みかけます。自ら所持したときに添えるものか、持ち主に依頼されて書き付けるものか...。松平不昧や小堀遠州の歌銘・書付を拝見しますと、自身で所持した際にその感動や思いを歌にしたためて記録したもののようですが...。
萩にしても唐津にしても、現地の土と釉薬を使って高麗茶碗に匹敵する焼き物を追い求めたという歴史があります。近年、韓国や日本の陶芸家の中には高麗茶碗そのものを再現・作製しようとする先生方が少なからずおられます。日本においては、土を現地(韓国)から取り寄せて使用している先生もおられますね。
高麗茶碗を再現するには、多くの茶碗をガラス越しに見るだけではなく、実物を手に取って観察したほうが良いものが作れるように思われます。高名なお茶碗は博物館や寺院等に収蔵されているものも多いですから、間近に観察出来る陶芸家は決して多くはないように思います。ある種の「出会い」も必要かもしれませんね。
私は高麗茶碗の中では井戸茶碗が好きですから、かねてより出来れば一碗欲しいと思っておりました。よく言われる「自分へのご褒美」としてですね。私の場合は普段使いにすることが前提ですから、現実的には数が多いといわれている御本や半使の中から求める(井戸も存在するようですが詳しくは知りません...)、現代作家の井戸作品から選ぶ(こちらは沢山あるようです)、のどちらかになるのでしょう。
「井戸茶碗」と一口にいっても、本やネットでみていると実に多種多様なものが目に入ってきて困惑するくらいです。またブランド・ニューになりますと、現代作家の作品といえども決して安価ではありません。いずれにしても後で後悔しないよう慎重に選定を進める必要がありますし、この作業は私にとっては大変贅沢で楽しい時間でもありますね。
共箱 蓋裏 「井戸茶盌 不東(護熙 印)」
(口径15.0cm・高さ7.2~7.8cm・高台径5.5cm・重量306g)
細川護熙先生の井戸茶碗です。枇杷色に青白い色調を帯びており、高台から口縁にかけての直線的な開き、強い轆轤目の出方などより青井戸茶碗に分類されるものだと思います。薄作りで、見込みの杉なりの削り込みは見事です。白い釉薬が口縁から高台にかけてなだれており、見込みには筋雲のようにたなびいている...また黒い斑が胡麻を振ったように散り、変化に富んだ景色を作りだしています。
貫入の入り方といい、梅華皮の変化に富んだ出方といい、申し分ありませんし、兜巾も立っています。口縁は綺麗な正円形で、私好みなのが嬉しいところです。高台は片薄気味で、僅かに斜めに切られているためか、器の高さが7.2~7.8cmと均等ではありません。天下の喜左衛門も高さが8.2~8.9cmと不均一なのですね。まさか、それを狙って作成したのではないとは思いますが....。
実際にお茶を点ててみますと、とても点てやすいのですね。お茶碗の形状がそのように出来ているのでしょう。またお抹茶が入ると、器肌がほのかにピンク色に染まって大変綺麗です。上品で洗練の極みという印象です。手取りは軽やかで、お茶が美味しくいただけますから、実用性も十分です。我が家では「不東盌」と名付け、記念すべき高麗茶碗の第1号となりました。
褒めてばかりいるようですが、本当に良くできていて感心するほかありません。下に記載した本を読みますと、護熙公は名だたる高麗茶碗を実際に見て、あるいは手に取って、そこから得られたインスピレーションをもとに作製しておられるように推察いたします。このお茶碗にも、そうした背景が宿っているのでしょう。
現代作家の高麗茶碗に私たちは何を期待するか...。人それぞれでしょうが、「写し」としての期待はあるとおもいます。喜左衛門や細川や柴田などは生涯手に触れることはないでしょうから、それらに雰囲気の近似したものを手にする期待はありますね。一方、作家からすると写しだけではなく、そこにオリジナリティーを付加する、アイデンティティーを示す...。護熙公は本阿弥光悦のような立場のようですから、束縛や拘泥のない自由な発想で作陶されているのでしょう。
細川護熙 著「不東庵日常」小学館 2004年6月10日
細川護熙 著「晴耕雨読」株式会社新潮社 2007年4月30日
花塚久美子 編集「和楽ムック 細川護熙 閑居に生きる」株式会社小学館 2009年6月17日
田中康嗣 編集「細川護熙 晴耕雨読と一時一事」J PRIME pp20-43
株式会社大丸松阪屋百貨店 2019年4月1日
共箱 蓋表 「伊羅保茶盌(彌 印)」
蓋裏 「彌弌作( 僊山 印)」
(口径14.0cm・高さ6.3~6.6cm・高台径5.0cm・重量275g)
文化勲章作家、楠部彌弌先生(1897~1984)の伊羅保茶碗です。先生は京都出身で、京都市立陶磁器試験場付属伝習所に入られ、卒業後は京都の粟田山、3年後に粟田口で作陶を始められました。その後、41歳で岡崎、68歳で山科に工房を開かれましたが、一貫して京都に居を構えての作陶生活でした。共箱蓋裏の印「僊山」は、日本画家を志した父君の画号なのですね。
この楠部伊羅保を伝世の伊羅保茶碗と比較すると、大きさ的には最も小型の部類に属する黄伊羅保の伝世品に類似しているようです。色調はチョコレート色の地にキャラメル色の釉薬を薄く掛けた感じで、石ハゼにより手触りはザラついています。茶溜は一段深く削りこまれ、端反りの口縁にはベベラが嫌みのない自然な雰囲気でみられます(伊羅保の共通点は”伊羅保釉が掛けられている”ことですが、発色や釉調は様々で、用いる土によってもかなり雰囲気は異なるようです....)。
整った形状の輪高台には複雑な起伏・削りが施されており、また釉景色も極めて多彩で、月並みな文言ですが大変感銘を受けました。大きな兜巾の横に「彌弌」の押印が鮮明です。「正直で、真摯で、しかも人一倍研究熱心の粘り屋であった(河北倫明)」「いつも穏やかで、ものしずかな人だった...どんな時でも相手を怒らない徳のある人だった(加藤唐九郎)」
下に引用した「楠部彌弌遺作展」の図録に、66歳の時に制作された伊羅保茶盌が掲載されております。このお茶碗はそれとよく似ておりますから、同時期に作成されたものかもしれません。チョコレートとキャラメルのツートンカラーにお抹茶を点ててみますと、ヨモギ色が見事に映えて相性は抜群でした。
「技術だけでもなく、知恵だけでもなし、勿論、感覚だけでもない。つくる人たちの心が問題となる。その人の持つすべてを作にぶつけてこそ感動深いものが生まれるだろう..."人ができて物が生まれる"」 (先生の初めての作品集に添えられた文章より引用)
京都は茶道文化の中心地であり、楠部先生の略歴を見ますと千家との関わりが記述されていますから、抹茶碗の制作には並々ならぬエネルギーを注いでおられたと思います。それは、81歳で文化勲章を受章された後、85歳の時に「楠部彌弌茶碗展」を開いておられることからも伺えますネ。
伊羅保茶碗は総てが日本からの注文品とされています。伊羅保が文献に登場するのは1659年の茶会記の「高麗伊羅保」が最初で、その僅か半年後の1660年に「粟田焼伊羅保似」の茶碗を南禅寺天授院の茶会で見かけたという記録があるようです。こうした京都―伊羅保ー粟田の関係を知ると、楠部先生の伊羅保茶碗には歴史の重みを感じ、感慨深い気持ちになりました。
朝日新聞大阪本社企画部 編集「現代陶芸の巨匠 楠部彌弌遺作展」朝日新聞社 1986年
日本の陶磁器の歴史において、文禄慶長の役はエポックメーキングの出来事でした。文禄の役では、羽柴秀吉の指揮のもと、宗義智(対馬)・小西行長(肥後)・松浦鎮信(肥前)らの一番隊18,700人、加藤清正(肥後)・鍋島直茂(肥前)ら二番隊22,800人、黒田長政(豊前)・大友義統(豊後)ら三番隊11,000人、毛利吉成(豊前)・島津義弘(薩摩)ら四番隊14,000人、福島正則(伊予)・戸田勝隆(伊予)ら五番隊25,100人、小早川隆景(筑前)・毛利秀包(築後)ら六番隊15,700人、毛利輝元(安芸) 七番隊30,000人、宇喜多秀家(備前) 八番隊10,000人、羽柴秀勝(美濃)・細川忠興(丹後) 九番隊11,500人、合計158,800人と、他に水軍9,200人が1592年4月13日朝鮮に出兵したのです。
秀吉の野望は朝鮮・明国を制圧し、明国皇帝となって北京の王城に君臨するというものでした。日本軍は短期間に北進して京城(ソウル)・平壌まで制圧しました。当初劣勢であった朝鮮は明国に援軍を要請します。一方、平壌まで進軍した小西行長は、明国の使節と講和について話し合い、明国の返事を待ちました。明国はこれを欺き、1593年1月密かに出兵して日本陣を攻撃しました。
日本軍と朝鮮・明国連合軍との戦いに変わって、戦況は一気に変化します。日本の進軍は点と点との結びつきで、強固ではありません。日本軍は次第に押し戻され、1593年1月8日に平壌から退去して京城に籠り、ここで4月9日連合軍との講和会議が開かれました。そして4月19日に京城から撤退して南下し、南部の海辺の蔚山・熊川・東萊・金海・巨済など16か所に城を築き、凡そ5万人が分かれて駐屯し長期駐留に備えました。
その後、明国との講和になりますが、その間1593年6月晋州城の戦いがありました。1593年6月に小西如安ら日本使一行は釜山を発ち、9月遼陽に着き、翌1594年12月漸く北京で講和の議に入りました。原案を検討後、1595年4月日本使一行と明国一行は京城に到着します。同年9月小西行長は朝鮮軍との講和の議に臨みました。1596年7月日本軍は釜山の4屯を残して帰国します。その後、日本・明国の一行に朝鮮の使臣が加わって、同年9月2日伏見城で秀吉と会見致しました。明国の冊書は秀吉の意に全く沿わない内容で、秀吉は1597年2月21日に再び朝鮮出兵を命じました(慶長の役)。
加藤清正・小西行長・宗義智・松浦鎮信・有馬晴信・黒田長政・毛利吉成・毛利勝永・鍋島直茂・鍋島勝茂・島津義弘・長曾我部元親・藤堂高虎・池田秀氏・加藤嘉明・蜂須賀家政・生駒一正・脇坂保治・毛利秀元・宇喜多秀家・小早川秀秋・立花宗茂・小早川秀包・浅野行長ら総計147,500人の大軍でした。明国は直ちに派兵を決定し、京城を目指す日本軍を金鳥坪で撃退しました。しかし、元々が講和のための威嚇出兵で、南辺各地に腰を据えた日本軍は築城に専念します。また米や給金を与えて朝鮮人を築城の労働者として雇い、市場を開かせて食料や衣類などを買い求めました。
日本軍の築いた城は難攻不落で、攻め込んだ明国・朝鮮軍はなかなか攻略できませんでした。加藤清正の蔚山・島山の城、小西行長の順天の城も攻撃されましたが、何とか陥落は免れました。しかし戦ですから双方に多数の犠牲者が出るのは必然です。そうこうするうち、小西行長から明国軍に「日本への撤退」の意向が伝えられました(秀吉の死去によりますが、朝鮮軍は知りませんでした)。明国陸軍はこれを受諾しましたが水軍は聞き入れず、帰国する日本軍の船団に襲いかかって最後の戦が繰り広げられました。
朝鮮を焦土と化し、朝鮮・明国・日本の兵士ならびに朝鮮民間人に多数の犠牲者を出した7年間にわたる戦は、1598年8月18日秀吉の死亡により漸く終結に向かい、同年11月末に日本軍は完全に撤兵したのです。
この戦で日本の武将は、1593年7月~1597年7月までの4年間に集中して、数万人といわれる朝鮮人を日本に拉致・連行しました。様々な分野の技術者たち、中でも陶工は、高麗茶碗の生産者たちも含め、根こそぎ連行されました。徳川幕府が成立し、拉致された人々のうち約6,000人が帰国しましたが、後は日本に帰化したようです。
ご存知のように連行された朝鮮人陶工により各地で陶磁器が焼成されるようになりました。島津義弘の薩摩藩では薩摩焼、鍋島直茂の佐賀(鍋島)藩では有田焼・伊万里焼・古九谷、大村喜前の大村藩では波佐見焼、寺沢広高の唐津藩では唐津焼、黒田長政の黒田藩では高取焼、細川忠興の小倉藩では上野焼、毛利輝元の長州(萩)藩では萩焼、等々枚挙にいとまがありません。江戸時代初期、東インド会社を通して輸出されたMade in Japanの陶磁器、その多くは朝鮮人陶工にルーツがあるのですね。
文禄・慶長の役により日本と朝鮮との国交は途絶えましたが、対馬島主 宗義智の必死の努力により徳川家康から朝鮮御用役を拝命し、正式に外交交渉に取り組みました。1607年徳川将軍に対する第1回朝鮮通信使が来日して講和が成立し、釜山浦に倭館(豆毛浦倭館: 古倭館)が設置されます。1609年己酉(きゆう)約条が成立して倭館への渡航が公認され、公貿易(朝鮮にない銅・錫・丹木・水牛角などを朝鮮政府が木綿で買い上げる)と私貿易(対馬藩は生糸・絹織物・朝鮮人参・虎皮など日本で高額に売れるものを求めた)が活況を呈するようになります。
日本の将軍と朝鮮の国王とが国書を交換するため、国書を運ぶのが朝鮮通信使でした。江戸時代に計12回来日し、朝鮮からの使節団は400~500人で、これに対馬藩の随行員その他を加えると5,000人にも及び、はるばる江戸まで往復したのです。これとは別に津島藩との実務的な折衝を行う「訳官使」「問慰行」と呼ばれる50~60人規模の朝鮮使節が存在し、江戸時代に60回近く派遣されました。一方、対馬藩からは年8回の「定例送使」と臨時の「差倭」が派遣されました。
高麗茶碗の入手は、対馬宗家からの「求貿差倭」が外交書簡を携えて釜山の東萊(らい)府に請求し、朝鮮国礼曹から国王へ伝えられて許可がおり、陶土・薪の供給を受けて釜山近郊の陶工に作陶させるという流れでした。少数ですが日本からの役人や商人が個人的に購入することもありました。宗家からの伝播は宗家と関係が深い武家・寺院・御用商人が有力な仲介者になっており、相国寺や小堀遠州の名前が上がっております。
1637年以降は使者・公貿易・私貿易が切り離されて私貿易主体の運営となり、対馬藩が渡航をコントロールするようになりました。倭館は対馬藩から派遣された「館守」が統括し、外交文書は京都五山から派遣された僧侶が担当するようになります。倭館が活況を呈するようになると、1万坪の古倭館が狭くて不便であるため、日朝合同で1675年3月~1678年4月まで3年の歳月をかけて建設した10万坪の草梁倭館(新倭館)へ移転しました。
「御本茶碗」は絵御本茶碗のところで記載しましたが、借用窯で作られたものと、1639年~1718年に倭館の外(1939~)・内(1644~)の窯(釜山窯)で焼かれたものに分けられ、日本からの注文茶碗とされています。釜山窯は旧倭館(約40年)・新倭館(約40年)の80年間、対馬藩士が運営にあたりました。倭館は女人禁制のため、総ては男手で作成されたことになりますね。
釜山窯では徳川将軍の請求として東萊(らい)府に陶土・薪を無償で請求しました。数百石(一石=一升瓶100本)の土を慶州・蔚山・河東・晋州・金海・密陽・梁山等2~30里から運搬させるわけで、この入手は困難を極めたようです。また陶土の不足分は訳官を通してかなりの高額で「内証土」を購入しました。その後、釜山近郊の轆轤師や番師を自前で雇って製品を焼成し、日本に運送しておりました。一窯開くたびに藩財政は持ち出しになっており、対馬藩の財政的な余裕があった最盛期には3年に1回開窯していたということです。窯が閉じられた後は工人たちは各々の窯に戻って自分たちの製品を作りました。そのため釜山近郊の民窯で御本と類似のお茶碗が焼かれていたとの推測があります。
「半使(はんす): 判司」は朝鮮使節の通訳を指す役職名です。朝鮮使節が日本に渡る際、同行する通訳者が予め釜山近郊の工人に日本向けの陶磁器を造らせ、対馬に持渡りしたお茶碗が「半使(茶碗)」と呼ばれています。これらは対馬藩が総て買い取っていたのですね。1672年~1678年頃が最も多く、1回に数百~数千個を購入しておりましたが、量があまりにも多く品質にもむらがあって必ずしも茶器として使えるものばかりではなかったため、1681年に持ち渡りを禁止し、品質がよくて茶の湯に適う茶器を釜山窯で作るように方針転換したのです。
尚、「本手半使」は日本からの注文以前のものを指し、ひずみのない形で窯変は薄青色を見せ、高台は厚めで高いようです。一方「御本半使」は薄手でひずみのあるものが多く、窯変は赤みが勝ち、鹿の子が広い範囲に及んでいるようです。
日本と隣国の中国・朝鮮との歴史は複雑であり、現在までその遺恨が残っています。19世紀後半、アジアの多くの国々が欧米諸国の植民地となった一方、日本は植民地化を免れました。清国は朝鮮を属国とみなしていましたが、1894年の日清戦争で日本が勝利すると、欧米列強の清国侵略が起こりました。1900年の義和団事変をきっかけにロシアが満州を占領したため、これに反発して1904年日露戦争が勃発し、これに勝利した日本は1905年日露講和条約を結び、1910年大韓帝国併合を行いました。
浅川伯教(1884~1964)は1913年に小学校教諭として朝鮮に渡りますが、主要な関心は美術で、まもなく朝鮮白磁に出会いました。1914年に柳 宗悦(1889-1961)を訪ねた折に朝鮮白磁の壺を土産に持参しています。1919~1922年東京で彫刻を学び、朝鮮に帰って彫刻・絵画作品を製作する一方、朝鮮白磁の研究を再開しました。1928年からは啓明会の資金援助を受け、1947年11月日本に引き上げるまで研究は続いたのです。また陶芸家であり、茶人でもありました。
実弟の浅川 巧(1891~1931)は1914年朝鮮に渡り、朝鮮語を学びつつ朝鮮林業試験所に勤務します。養苗が専門で、朝鮮語が堪能なうえ身なりも朝鮮人の恰好で、しっくり朝鮮に溶け込んでいたようです。仕事の傍ら兄伯教の仕事をサポートし、また伯教・柳 宗悦とともに朝鮮民族美術館の設立に尽力しました。
浅川伯教は、実弟である巧の協力もあり、現在ではほぼ実行不可能な朝鮮半島700ヶ所あまりの古窯跡の調査を行いました。さらに並行して日本の窯業地も調査しています。また日本に伝わる多数の高麗茶碗を観察分析し、最終的に朝鮮白磁の歴史をまとめあげました。以上の功績により「朝鮮古陶磁の神様」と呼ばれています。
殆ど資料のなかった時代に、現地に赴いて慣れない言葉で質問しながら手探りで古窯跡を探し求め、陶磁器片を精力的に収集してその地図を作成した苦労は並大抵ではなかったでしょう。古くからの陶磁器作製様式が残っている窯業地では、そこで作陶を実践し「製作上の常識」を会得したようです。朝鮮・日本の関連資料も十分検索しているのですね。
日本で発展した独特の文化である茶道、古の茶道の宗匠が見立てた高麗茶碗、そのほとんどが日本に渡ってきており、現地に残っているものは少ないようです。そうすると研究するにも日本人の方が適していたのかもしれません。浅川伯教と益田鈍翁(1848~1938)との交友の様子も興味深く拝読いたしました。
著作を読んでみると、いわゆる高麗茶碗の概要がおぼろげながら把握できました。しかしその内容を理解するにはかなり広範な基礎知識が必要だと感じました。私は半分も分かっていないでしょう...日本史・世界史の知識も浅く、作陶の経験もありませんから.......。
高麗茶碗についての入門書・専門書は沢山出ています。最近出版された本を購入したところ浅川伯教の本の引用があり、私もそれで購入してみました。今回浅川兄弟の本を読んでみて、これまでに出版された本の著者らは総て浅川兄弟の研究を参考にしているものと思いました。
福井県にある一乗谷朝倉氏遺跡は国の特別史跡に指定されています。戦国時代の城下町全体が遺跡となって残された278haにおよぶ広大な史跡です。この城下町は天正元年(1573年)に織田信長の軍によって瞬時に焼亡したため、出土品は1573年以前のものであることが確定でき、高麗茶碗が茶の湯のお茶碗として見立てられた時期の究明に大きな役割を果たしたのです。それを知って私の好奇心が暴れだしましたので、早速現地視察に行ってまいりました。
朝倉氏は但馬国たじまのくに(兵庫県)に住んでいた武士で、南北朝時代に越前守護・斯波しば氏に従って但馬から越前に入りました。応仁の乱を経て斯波氏を倒し(下剋上)、越前一国を治める大名になりました。一乗谷はその拠点なのですね。
この遺跡からは茶室と推定される遺構が発見され、各種の茶道具が出土しています。高麗茶碗については、刷毛目、斗々屋、蕎麦、井戸脇、堅手などの茶碗が見つかりました。これらの茶碗が1573年以前に日本に伝来したしたことが証明されました。
広大な史跡を要領よく見学するにはガイドさんに案内して頂くのがベストですね。事前に観光案内をチェックしてガイドツアーに申し込んでおきました。当日は観光日和の良いお天気に恵まれました。またガイドさんは郷土愛溢れるベテランで、豊富な知識を淀みなく熱く語ってくださいました。感謝々々。
一乗谷朝倉氏遺跡博物館には城下町(①)と朝倉館(②)のジオラマが展示されております。これらの見学ポイントを教えて頂いてからガイドさんと一緒に実際の遺跡(⑤⑦)を歩くと、建物こそありませんが雰囲気はつかめます。また復元された町屋(⑥)や武家屋敷もありますから、当時の暮らしぶりが一層リアルに感じられました。
博物館には出土品も多数展示されており、その主だったものもガイドさんから解説して頂きました。茶器は唐物磁器が圧倒的に多く、高麗物は少数です(③④)。茶道具類の出土した場所を下記刊行物から調べると、朝倉館とその周囲、武家屋敷、寺院、医師邸、職人頭の屋敷等から出土していることが分かります。当時の喫茶の広がりが良く理解できました。
復元された町屋を歩いてみますと、一般庶民の屋敷はとても手狭で、ここに一家何人が住んでいたのか気になるほどです。一方、武家屋敷の方は中級武家屋敷といえども敷地は広くてゆったりしていますし、使用人部屋や蔵もありました。まさに士農工商ですね。上級武家屋敷には茶室もあったのでしょうか...。
ちなみにツアーは約2時間で、参加費は博物館から遺跡までの往復バス料金込みでたったの500円でした。精力的にご案内頂きましたガイドさんには申し訳ないほどのfeeです...。
福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館 編集・発行:
技 WAZA 出土遺物に見る中世手工芸の世界 2007年7月18日発行
「和」の空間 中世の座敷と技術 2008年7月25日発行
第18回企画展 一乗谷の医師 2010年7月発行
福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館 編集・発行:
福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館 ガイドブック 2022年10月1日発行
2023年7月14日改訂
高橋義雄 編集「宝雲舎版 大正名器鑑(大正10年~昭和元年初版、昭和12年3月普及版) 復刻
版」五月書房出版 昭和50年
浅川伯教 著「釜山窯と對州窯」彩壺會 昭和5年7月25日
浅川伯教 著「朝鮮古陶磁論集 1,2」山梨県北杜市 2017年3月20日発行
浅川 巧 著「朝鮮陶磁名考(昭和6年9月5日初版)」「小品集」八潮書店 昭和53年12月25日
ヘンドリック・ハメル 著 生田 滋 訳「東洋文庫132 朝鮮幽囚記」
株式会社平凡社 1969年2月20日発行
高島鳴鳳 著「東国の礎石:文禄・慶長の役」新報印刷株式会社 1976年4月1日発行
高崎宗司 著「朝鮮の土になった日本人 浅川巧の生涯」株式会社草風館
1982年7月15日初版発行
茶道資料館 編集・発行「高麗茶碗」1989年10月13日発行
茶道資料館 編集・発行「高麗茶碗ー御本とその周辺ー」1990年10月10日発行
小田栄一 編集「茶道具の世界2 高麗茶碗」株式会社淡交社 1999年12月20日発行
赤沼多佳 執筆・編集「日本の美術 第425号 高麗茶碗」至文堂 2001年10月15日発行
高麗茶碗研究会 編集「高麗茶碗-論考と資料」株式会社河原出版 2003年5月1日発行
李 義則 著「陶磁器の道:文禄・慶長の役と朝鮮陶工」有限会社新幹社 2010年9月1日発行
田代和生 著「新・倭館―鎖国時代の日本人町」株式会社ゆまに書房 2011年9月2日発行
谷 晃 著「わかりやすい高麗茶碗のはなし」株式会社淡交社 2014年2月22日発行
松山龍雄「炎芸術No.122 高麗茶碗の古典と現代」阿部出版株式会社 2015年5月1日発行
赤沼多佳 竹内順一 谷 晃 監修 降矢哲男 責任編集「茶の湯の茶碗 第二巻 高麗茶碗」
株式会社淡交社 令和5年2月23日 初版発行