東山魁夷の白馬

 

東山魁夷画伯(1908-1999)は日本画を代表する風景画家として有名です。その風景中に、ある時期一頭の白馬を書き入れた連作があります。実物は長野県信濃美術館で見ることができますので、実際私も見学に行きました。またネット上にも沢山の画像がアップされています(⑤⑥)。

 

現在の自動車社会では、馬は乗馬や競馬などのごく限られた場面でしかお目にかからなくなりましたが、それ以前は日常生活上なくてはならない存在でした。したがって絵画に登場する頻度も、調べたわけではありませんが、現在よりはずっと多かったことでしょう。

 

日本人に最も有名な油絵のうちの一枚はレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)のモナリザでしょう。ダ・ヴィンチ作とされる繊細な馬のスケッチもネットにアップされていました(A)。ジャック=ルイ・ダビッド(1748-1825)が描いたナポレオンボナパルトの力強い絵「サン=ベルナール峠を越えるボナパルト」も一度は見たことがあるのではないでしょうか(B)。

 

エドガー・ドガ(1834-1917)の描いたバレエ作品・室内風景は日本でもポピュラーですが、競馬場も描いています(E,F)。ドガはテオドール・ジェリコー(1791-1824)(C)やジョン・ルイス・ブラウン(1829-1890)(D)の描いた馬の絵を研究していたこと、その構図には浮世絵の影響が見られること、などの指摘があるようです。

 

日本に目を移しますと、平安時代末期~鎌倉時代の作とされる国宝「鳥獣戯画」にも馬の絵がみられます(①)。浮世絵の巨匠、葛飾北斎(1760-1849)(②③)や歌川広重(1797-1858)(④)の作品にも馬はしばしば登場しています。浮世絵が多くの西欧画家に影響を与えたことは頗る有名ですね。

 

時代が下ると情報拡散のスピードは日進月歩で、それは美術の世界でも例外ではないでしょう。希望すれば膨大な情報を瞬時に得ることができますし、美術学校ではそれらを研究して自分の作品に生かす術を学習するはずです。そうした中で独創的なテーマや技法を捻出するのは並大抵の事ではないのでしょう。

 

東山画伯が「白馬のいる風景」を描いたのは1972年で、その前年に唐招提寺御影堂障壁画の制作を受諾した時期でした。画伯は「1973年からは一切の依頼画を断って障壁画の制作に全面的に打ち込むことになる...その頃はもう障壁画の事で頭が一杯で...過去の旅のスケッチを取り出して眺めたりした...突然緑一色の風景の中に白い馬が小さく姿を現し...いつか見たりスケッチしたいろいろな風景の中に一頭の白馬が現れてくるのを感じた」「白馬は明らかに点景ではなく主題である...心の祈りを現している。描くこと自体が祈りであると考えている私であるが、そこに白馬を点じた動機は切実なものがあってのことである。」と述べています。

 

自然と対峙し、風景画を描いてきた東山画伯にとって、唐招提寺御影堂の壁画を制作するということは、今までの制作過程とは違った計り知れない重圧があったことがこの文章から推測されます。テーマ、取材、画面構成、技法、自身の健康などなど、総てが安寧に進んで欲しい...祈らずにはいられなかったのでしょうね。

 

馬を描いた作品は夥しく存在するのでしょう。馬が主題の作品、馬が風景の一部となっている作品がほとんどだと思います。一頭の白馬に祈りを込め、非現実的とも思える画面構成で描きこむというアイデアは、ありそうでないように思われます。東山画伯独自のアイデアではないのでしょうか。

 

白馬は世界各地の神話に登場しています。日本では伊勢神宮の御祭神「天照大神」の御子神「天津彦根命」を御祭神とする多度大社に白馬伝説があります。白馬は人々の願いを神に届ける使者の役割を果たすと言われており、東山画伯の白馬は自身の願い・祈りを神様に届ける神馬なのでしょうね。

 

一方、白馬は風景画に全身全霊を捧げてきた画伯自身とも受け取れます。信濃の雄大な美しい自然に溶け込み、一人黙々とスケッチしている画伯の姿が重なって見えます。「これは私が心を込めて描いてきた風景画です、唐招提寺障壁画の制作にもこれまでと同様の姿勢で臨みます、どんな苦難も乗り越える覚悟です、見守ってください」。初め「白馬のいる風景」には馴染めなかった私ですが、画伯の深い思いを知るに至ってすっかり変わりました。

 

「白い馬の見える風景」展は、1973年に日本各地で、1982年にパリで開催されました。東山画伯の白馬の絵からインスピレーションを受けたと思われる作品は、日本画・洋画を問わず拝見いたします。画伯の1976年からの知己であるフランス人画家アンドレ・ブラジリエ (1929-)は、馬を描く画家として日本でも人気がありますね(G,H)。その初期の作品には、東山絵画へのオマージュもあったように思えます。

 

 

参考資料

 

東京国立近代美術館 岩崎吉一 藤井久栄 石割悠子 編集:東山魁夷展図録 

                            日本経済新聞社 1981年

東山魁夷 著:東山魁夷自選画文集(全五巻) 株式会社 集英社 1996年6月30日第一刷発行

東山すみ 監修・長野県信濃美術館 東山魁夷館 編者:

        東山魁夷全版画集1956-2000 日本経済新聞社 2000年7月3日発行

長野県信濃美術館 編集・発行:長野県信濃美術館 東山魁夷館所蔵作品選 

                            印象社 2001年3月発行

尾﨑正明 鶴見香織 中村麗子 編集:生誕100年 東山魁夷展 日本経済新聞社 2008年

平林彰 星野立子 田口慶太 石川潤 齋藤進 平田三男 水原園博 編集:

 知識も理屈もなく、私はただ見てゐる。  川端香男里 東山すみ 発行 平成23年