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美術館巡礼

国宝、重要文化財、重要美術品

藤田美術館

野村美術館

五島美術館

寧楽美術館

根津美術館

三渓園

三井記念美術館

静嘉堂文庫美術館

美術館巡礼

美術館訪問は現在の私の生活の一部になっています。地元の美術館にも良く行きますが、旅行や出張に出る前は当地の主だった美術館の展示案内をチェックして、面白そうな時には時間を割いて訪問するのがルーチンになっております。

 

今でこそ大規模な公的美術館が多数存在し、展示も充実した内容になっておりますが、明治時代のまだ美術館が存在しない時期には貴重な美術品が国外に流出することも多く、一部の美術愛好家が私財を注ぎ込んで蒐集した歴史がありました。

 

明治維新により武家社会は崩壊致しました。代わって新たな主役に躍り出たのは維新政府の高官と近代産業・商業を発展させた実業家で、その中には古美術に興味を持つ方たちがおりました。前者の代表が井上 馨(号「世外」)であり、後者の代表が益田 孝(号「鈍翁」)ですね。当初は西欧人と同様に仏教美術、漆工芸品を収集したようですが、これら美術品を実生活に生かす大系が「茶の湯」であったことから近代の「数寄者」誕生に至ったようです。

 

近代の数寄者は尋常ならぬそれこそ莫大なエネルギーを注いで一級の美術骨董品を蒐集し、茶会を開いては披露する(自慢する?)ことが慣例になっていたようです。「大師会」「和敬会」「光悦会」などの有名な茶会のメンバーには当時の政治家や実業界の重鎮が顔を揃えており、一方では美術品争奪に火花を散らし、一方では茶会で和気あいあいとお茶を喫していたのですね。

 

こうして蒐集された美術品の中には今日の国宝や重要文化財に指定された貴重な作品が多数含まれております。これらのコレクションは一方では美術館という形で残り、一方では市井に離散することになりました。また公的な美術館に寄贈されたものもありますね。

 

優れた美術品・骨董を蒐集している言わば「数寄者の美術館」というような場所を巡る旅は、以上の歴史を鑑みるとささやかではありますが「巡礼」という言葉が相応しいのではないかとふと思いました。それでは私流の巡礼にいざ出発 (2023年から新たに訪れた順になりますので悪しからず)。

国宝、重要文化財、重要美術品

日本では1897年(明治30年)の古社寺保存法により同年12月28日に国宝(いわゆる「旧国宝」)指定が行われました(国宝155件、特別保護建造物44件)。その後1929年(昭和4年)に古社寺保存法に代わって国宝保存法が制定されます。1950(昭和25年)に文化財保護法が施行され、それまでに指定されたいわゆる「旧国宝」の宝物類(美術工芸品)5824件と建造物1059件は同年8月29日に総て「重要文化財」に指定されました。そのうち世界文化の見地から価値の高いもので類ない国民の宝が「国宝」に指定されました。

 

2023年1月1日の時点で国宝を含む重要文化財の件数は建造物2,557件5,373棟、美術工芸品は10,820件(絵画2,042件、彫刻2,726件、工芸品2,471件、書跡・典籍1,920件、古文書781件、考古資料652件、歴史資料228件)、計13,377件です。このうち国宝は1132件で、建造物230件(294棟)、美術工芸品902件(絵画166件、彫刻140件、工芸品254件、書跡・典籍229件、古文書62件、考古資料48件、歴史資料3件)が含まれます。御物(皇室の私有品)および三の丸尚蔵館を除く宮内庁管理の皇室関係の文化財は文化財保護法の指定の対象外です。

 2014年7月時点で国宝を含む重要文化財に指定された美術工芸品10,524件のうち、所在不明が139件(国宝0件)、追加確認が必要なものが49件(国宝7件)あります。

 

重要美術品の認定は、1933年(昭和8年)に「重要美術品等ノ保存二関スル法律」が制定されて発効しました。これにより海外への輸出は文部大臣の許可が必要になりました。当時のいわゆる旧国宝が社寺の所有品が大部分であったのに対し、重要美術品等認定物件は圧倒的に個人の所蔵品が多く、刀剣・浮世絵・古筆(主に平安~鎌倉期の筆跡)・宸翰(天皇の筆跡)など、幾つかの特定分野の物件が際立って多い特徴があります。美術品の海外流出を防止するための緊急措置として認定されたため、その価値が定まっていないものも多数混入したようです。

 

1950年の文化財保護法施行時に「重要美術品等ノ保存二関スル法律」は廃止されましたが、重要美術品認定は当分その効力が保つとされており、1950年当時で約8,200件ありました。認定取消は重要文化財に格上げされるか海外輸出が認可されるかの何れかに限られます。前者の代表が「源氏物語絵巻」「十一面観音像」で、何れも国宝に指定されました。2008年時点で重要美術品認定は6千数百件と推定されています。

 

https://ja.m.wikipedia.org

藤田美術館

公益財団法人藤田美術館は大阪市都島区網島町にあります。JR東西線大阪城北詰駅に隣接しておりますから、遠来者にとってはアクセスの飛び切り良い美術館で嬉しいですね。2022年4月1日にリニューアルオープンしましたので、私も旧館を訪ねて以来の見学に行ってまいりました。

 

藤田伝三郎(1841~1912)、雅号「香雪」、は長州萩の造り酒屋に生まれ、大阪で軍需産業から事業を拡大して鉄道、化学工業、鉱業、紡績など一大コンツェルンを作り上げました。長州出身の伊藤博文、山形有朋、井上馨といった有力政治家とも昵懇であったことは良く知られています。この財力で書画骨董を幅広く収集したことが藤田美術館設立に繋がりました。同館には国宝9件、重要文化財51件が収蔵されています。

 

藤田美術館の入口(写真)はガラス張りの明るい感じで、入って直ぐに喫茶ができる広いスペースがあります。見たことのないデザインに早速驚かされました。物珍しさあり、また喉の渇きもありましたから、抹茶付きのお団子を先ず頂いて、それから展示室に入場致しました。

 

ここは写真撮影OKという見学者には大変親切なサービスがあります。国宝級の展示物のある美術館でこうしたサービスがあるところは他にあるのでしょうか。人情に厚く、肝っ玉が無類に太かった香雪翁の美術館ですものね。写真はタログにも載っていますが、自分で撮影したものには臨場感があって捨てがたいのですね。写真に頼って実物をシッカリ見ない危険性はありますが...。

 

同館の誇る国宝「曜変天目茶碗」(写真)が展示されておりましたので早速写真を撮りました。旧館でも拝見しましたから、少なくても2回目の拝見になります。曜変天目はこれまで何度か見ておりますが、3碗ある曜変天目の内のどれであったか思い出せないものもあります。写真があると記憶を補うのに良いですね。

 今回は他に国宝「玄奘三蔵絵」(写真)も展示されておりました。1300年代に高階隆兼の工房で描かれたとされており、絵がとても綺麗で印象に残りました。

 

見学が済んでから裏のお庭に出てみました(写真)。良く整備された綺麗なお庭です。高層ビルが借景になっていて、現代的な庭園とお見受け致しました。

 

https://fujita-museum.or.jp

野村美術館

野村美術館は京都の南禅寺に隣接しております。これまで南禅寺は何度も訪れたことがありましたが、野村美術館は今回初めての訪問でした(写真)。あいにくの小雨模様で、ホテルからの移動はタクシーに致しました。南禅寺には多数の観光客が詰めかけており、天候は関係ないようですね。

 

野村美術館は野村證券・旧大和銀行(現在の「りそな銀行」)などの創業者で一大金融グループ野村財閥を築いた野村徳七(1878~1945)、号「得庵」、のコレクションをもとに1984年に開館しました。茶道具・能面・能装束など重要文化財7件を含む凡そ1900点を所蔵するとホームページにあります。得庵は茶道・能をたしなみ、美術館のお隣の日本庭園内には数多くの茶会が催された碧雲荘と能舞台があるのですね。

 

美術館は1階と地階に展示室があります。平日で雨模様のためでしょうか、訪問客は少数で、ゆっくりと見学ができました。photo禁でガラスケース越しのため、多数の展示を見たのですが多くは記憶に残らないのが残念です。少数ですが以前から知識として知っていた展示品は覚えているものですね(写真)。

 

折角ですから売店で図録を購入致しました。鮮明な印刷の立派な図録で、お茶碗を眺めてみますと、珠光青磁茶碗、安南茶碗、大井戸・青井戸をはじめとする各種高麗茶碗、桃山美濃茶碗、長次郎・道入の楽茶碗、と名品ぞろいで圧倒されます。今後行くときには図録で十分予習してからまいりましょう。

 

見学が済んだ後、立礼でお抹茶を頂戴いたしました(写真)。さすが京都ですね、お抹茶と一緒に上品な生菓子が添っており、美味しく頂きました。かえって立礼茶席の方が記憶に残るかもしれません。

 

野村美術館 学芸部 編集:野村美術館名品図録(新版) 財団法人 野村文華財団 発行

                                                                           2008年4月1日発行

https://nomura-museum.or.jp

五島美術館

東京都世田谷区上野毛にある公益財団法人五島美術館に行ってまいりました。上野毛駅から歩き始めて直ぐに方向音痴になり、歩いてこられたご婦人に道をお聞きすると親切に教えてくださいました。数分歩いて道を右折すると閑静な住宅街に入り、間もなく正門が見つかりました(写真左)。

 

ホームページによりますと、五島美術館は五島慶太(1882~1959)が蒐集した日本と東洋の古美術品をもとに構成され、「源氏物語絵巻」など国宝5件、重要文化財50件を含む約5000件が収蔵されています。また大東急記念文庫には国宝3件、重要文化財33件を含む2万5千冊が収められているようです。

 

五島慶太は東急電鉄の創始者で、「古経楼」の雅号を持つ茶人でもあります。ウィキペディアには戦国武将の国盗りを思わす事業展開が詳述されております。五島美術館の庭園には「富士見亭」と自身の雅号と同じ名前の「古経楼」という茶室がありますし、五島邸には他に「松寿庵」という茶室もあるようです。

 

五島美術館は平屋建てなのですね。今回の展示は「古鏡展 めでたい鏡の世界」「書き入れ本と自筆資料」で、今まで全く勉強したことのないものでした。鏡は、重要文化財・重要美術品を多数含む展示物を眺めておりますと、中国の前漢や唐の時代の鏡は「鏡背面」の模様がとても細かくて綺麗で惹きつけられます。倭鏡は中国製に比べて模様が簡略で、大陸との技術の差は歴然としているように思われました。

 

ロビーの椅子に座って休んでいると、美術館職員の方からお庭の散歩を勧められました。庭園に出てみますと、雲一つない空の青さが目に沁みます(写真中)。酷暑ですから近くだけ歩いてみましたが、木陰が多くて助かりました。前述のように茶室が二棟あります(写真右)。ここでも茶会が開かれたのでしょうね...。

 

最寄り駅から近いですし、館内も綺麗ですから、展示の内容をチェックしてまた訪問してみましょう。喫茶室はありません。残念ですがカメラはNoでした。

 

https://www.gotoh-museum.or.jp

寧楽美術館

寧楽美術館は奈良市の東大寺に隣接する依水園の中にある美術館です(図)。丁度紅葉が見ごろの秋晴れの日に訪問いたしましたので、沢山の人で賑わっておりました。美術館を通り抜けて「名勝(国指定の文化財)」に指定された庭園を先に回りました。

 

順路通り行きますと青秀庵、氷心亭を左に見て進み、「後園」(図)から見学することになります。借景によって雄大な景色が見られます。座って休憩する場所もありますから、ゆっくりと回れます。柳生堂、挺秀軒(図)もありました。

 

最後に「前園」(図)に至ります。出口手前にある三秀亭では食事も出来るようですが、予約が取れなかったのでお抹茶セットを頂きました。園内には海外の観光客も沢山おいででした。土地柄でしょうね。

 

「前園」は1673年に清須美道清が作庭、「後園」は1897年頃から関藤次郎が裏千家十二世又妙斎宗室に依頼して作庭したもので、京都の庭師が施工したようです。関藤次郎は「宗無」と号した風流人でした。

 

庭園を出てから寧楽美術館を見学致しました(図)。ホームページによりますと海運業を営んだ中村準策ならびに準一・準佑の中村家三代が収集した美術品二千数百点が所蔵されており、1939年に準策氏が関家より依水園を買い受け、1958年に準佑氏が公開を始めたとあります。

 

係りの方に写真OKを確認してから、主だったものをスマホでパチリパチリと記録に残しました(図)。今年買い替えたスマホは写真機能が優れていますから、帰宅後に拡大してみますと十分鑑賞に堪える写真になっておりました。

 

https://isuien.or.jp

根津美術館

2024年の美術館巡礼は「魅惑の朝鮮陶磁」「謎解き奥高麗茶碗」の企画展に惹かれて根津美術館訪問から始めました。2月某日風は冷たいのですがお天気に恵まれましたので、表参道駅から歩いて行きました。入って直ぐのアプローチは美術館の云わば露地ですね。雑然とした外部から精神をリフレッシュし、美術を純粋に味わえるよう設計されたのでしょう(設計 隈研吾)(写真左2枚)。

 

尾形光琳「燕子花図屏風」でも有名な美術館ですね。ホームページによりますと根津美術館の収蔵品は2021年12月末時点で国宝7件、重要文化財88件、重要美術品95件を含む7613件と立派なうえ、立地も良いですから訪問される方も多いと思います。実際当日は外国からの訪問客を含め大変賑わっておりました。

 

 まず最初に「魅惑の朝鮮陶磁」を拝見いたしました。主に館蔵品の展覧で、陶質土器、青磁、粉青、白磁が計34点、高麗茶碗が16点、それに陶片の展示がありました。パンフレットに「青磁陽刻蓮華唐草文浄瓶」(重要文化財)は高麗青磁の超名品とあり、翡色青磁の最高峰なのでしょうね。高麗茶碗は各種類のお茶碗がほぼ1点ずつ並べられており、重要文化財である青井戸茶碗「柴田」と雨漏堅手茶碗が含まれております。

 

「謎解き奥高麗茶碗」は草創期の奥高麗茶碗が8碗、展開期が11碗、完成期が10碗(重要文化財1点)、後期の定型化する奥高麗茶碗が5碗、計34碗の展示内容でした。これだけ多数の奥高麗茶碗をまとめて見学できる機会は滅多にないでしょうし、大変勉強になりました。記念に根津美術館学芸部が編集した図録をお土産に購入致しました。

 

他に「古代中国の青銅器(重要文化財8点)」「ひな人形と百椿図」「春の茶の湯-釣り釜ー(重要文化財1点)」の各展示室があり、茶室が点在する日本庭園(写真右2枚)の散策ありで、3時間たっぷり滞在致しました。

 

根津美術館は初代根津嘉一郎(1860-1940)の遺志により1941年に開館されました。根津嘉一郎(青山)は山梨県出身で、県会議員、村長、衆議院議員を歴任し、また事業欲も旺盛で、後に鉄道王と呼ばれて実業界に大きな足跡をのこしました。美術品の収集にも熱心で、コレクションも東都数寄者中で10指に入るころに青山の邸宅青山荘が完成し、茶室「無事庵」で初陣茶会が開かれ、正客は大正名器鑑を編纂した高橋義雄(箒庵)(1861-1937)でした。

 

三渓園

横浜の国指定名勝「三渓園」は原 富太郎(三渓)(1868~1939)が造り上げた日本庭園です。パンフレットには「広さ約53,000坪(東京ドーム4個分)で、一般に公開された外苑と三渓が私庭とした内苑からなり、京都や鎌倉などから集められた17棟の歴史的建造物と四季折々の自然とが調和した景観が見どころ」と記載されております。建造物は重要文化財が10棟、横浜市指定有形文化財が3棟あり、見方によっては野外美術館といってもよいような構成です。

 

原三渓は益田 孝(鈍翁)(1848~1938)と並んで明治から昭和の初めにかけて日本を代表する実業家であり数寄者でした。二人が所蔵していた美術品は国宝クラスが50点以上、重要文化財クラスが100点以上と推測されています。太平洋戦争中にアメリカが日本の文化財を破壊から守るため、横浜の三渓邸と小田原の鈍翁邸には重要印が付けられていたようです。

 

梅の花が咲く季節に三渓園を訪問いたしました。正門(写真1)を入ると大池があり、鯉が群れ、鴨が悠々と泳いでおりました。道なりに進むと御門があり、そこから内苑に入ります。有名な3棟が連なった重要文化財の臨春閣(写真2,3)は紀州徳川家の書院造り別荘を移築したものです。庭内のあちこちに伽藍石、石燈籠、手水鉢などが配置されており、草木や花も豊富で小川も流れており、私邸とは思えない造りです。

 

内苑には他に秀吉が京都大徳寺に建てさせた旧天瑞寺寿塔覆堂(4)、修復を終えたばかりの月華殿(5)、天授院・聴秋閣・春草盧の重要文化財があり、外苑には旧燈明寺三重塔(7)を含め4棟の重要文化財があります。三渓は自分が構想したお茶室の蓮華院(写真6)で、50歳を超えて初めて初茶会を開きました。この時の正客は鈍翁、次客は高橋箒庵でした。蓮華院には宇治平等院鳳凰堂の古材が遣われているようです。

 

原 富太郎(三渓)と長男の善一郎が美術界に残した功績は、下記の「美術話題史」に詳述されております。それに関連して三渓園には目が眩むような日本画・洋画の巨匠達や教育者・学者、さらに外国からの賓客が訪問していたのですね.....お人柄が偲ばれます。

 

現在の三渓園は公益財団法人「三渓園保勝会」が管理運営を行っております。私はガイドさんに案内して頂きましたが、ガイドさんは無償のボランティアの方でした。老婆心ながら、この大きな史跡を管理運営するのは並大抵の苦労ではないと感じ、一訪問者として感謝申し上げたい気持ちになりました。

 

https://www.sankeien.or.jp

三井記念美術館

「茶の湯の美学ー利休・織部・遠州の茶道具ー」のタイトルに惹かれて三井記念美術館へ行ってまいりました。日本橋三越本店のお隣で交通の便が良いところですから、訪問された事のある方が多いのではないでしょうか。かく言う私も何度も訪れており、最もよく訪れる美術館の一つです。三井本館の建物自体が重要文化財なのですね(写真)。

 

三井記念美術館が所蔵する凡そ4000点の美術品のほとんどは三井各家からの寄贈によるもので、特に茶の湯に関するものが全点数の半数を超えており、北家(約1900点)・新町家(約1050点)・室町家(約700点)からの寄贈が多く、国宝6点、重要文化財75点が含まれれいます。館内に国宝の茶室「如庵」内部が再現されているのもユニークですね。

 

三井高利(1622~1694)が江戸に三井越後屋を興して事業が発展し始めたころ、茶の湯は利休没後百年の遠忌に向かい武家に加え商家でも盛んにおこなわれるようになっておりました。三井家は二代高平、三代高房の時代に表千家と親交を深めました。その後11家に制定された三井各家でも茶の湯は嗜まれました。

 

今回は茶道具全般が展示されておりました。お茶席で最も重要とされる掛物については、千利休と小堀遠州の消息が多い印象でしたが、村田珠光の山水図、武野紹鷗の消息、古渓宗陳の墨蹟、古田織部の消息なども展示されておりました。これだけ多くの利休自筆のお手紙を拝見できる機会は少ないのではないでしょうか。

 

また国宝の志野茶碗「卯花墻」、重要文化財の黒楽茶碗「俊寛」・唐物肩衝茶入「北野肩衝」・清拙正澄墨蹟「霊致別称偈」・玳皮盞「鸞天目」、他に大名物1点、中興名物7点などがあり、見どころ満載でした。展示物の写真撮影は禁止でしたが、ロビーには撮影OKの樂宗入作「あやめ写黒楽茶碗」が展示されておりました(写真)。

 

https://www.mitsui-museum.jp

静嘉堂文庫美術館

特別展「眼福(眼の保養) 大名家旧蔵、静嘉堂茶道具の粋」を見学してきました。嬉しかったのは国宝窯変天目以外を写真撮影できたことでした。それは展示品総てが静嘉堂文庫美術館の収蔵品だから可能なのでしょうね。

 

静嘉堂文庫美術館の茶道具は三菱第二代社長岩﨑彌之助(1851~1908)と嗣子で第四代社長岩﨑小彌太(1879~1945)により1884年頃から1945年までに蒐集されました。静嘉堂には約6500件の東洋古美術品があり、茶道具は約1400件を占めます。また20万冊の古典籍を収蔵しています。国宝7件、重要文化財84件が含まれます。

 

静嘉堂文庫は岩﨑彌之助により1892年に創設されました。小彌太は1940年に財団法人静嘉堂を設立し、没後の1946年、遺言により蒐集した美術品が財団に寄贈されました。静嘉堂創設100周年の1992年に静嘉堂文庫美術館を新設し、130周年の2022年に東京丸の内の重要文化財・明治生命館1階(写真)にて展示活動を始めました。

 

明治生命館は三菱系列である明治生命の社屋として1934年に竣工しました。終戦後はアメリカ極東空軍司令部として使用され、1956年明治生命に返還されました。コリント式列柱の並ぶデザインが特徴の一つのようで、1997年重要文化財に指定されました。外観同様、1階にある展示室もとても重厚で良い雰囲気ですね。

 

岩﨑彌之助は数寄者ではなかったようですが、由緒伝来の確かな茶道具の愛好者でした。一方、小彌太は夫人ともども久田家第十一代無適斎宗匠に師事して茶湯の稽古を続けられた茶人でした。豊臣秀吉の北野大茶湯から350年を記念して1936年に開かれた「昭和北野大茶湯」において、その一席に小彌太が所有していた茶道具が用いられました。

 

窯変天目は過去に何回か拝見致しましたが、展示が見やすくて見込みがとても良く見えました。まさに”奇跡”としか表現のしようがありません、本当に...。また風格という観点からは大井戸茶碗は外せないものなのでしょうね(写真)。ノンコウの赤楽茶碗は色彩豊かで「眼福」に相応しい一碗と感じました(写真)。有名な茶入も沢山展示されていて、そこのコーナーはなかなか人垣が進まずに時間がかかりました(写真)。他にも三島芋頭水差(写真)、仁清の茶壷(写真)、等々心惹かれるお道具のオンパレードでした。

 

静嘉堂文庫美術館 編集・発行「眼福 大名家旧蔵、静嘉堂茶道具の粋」2024年9月10日発行 

 

https://www.seikado.or.jp

参考文献

松田 延夫 著「美術話題史 近代の数寄者たち」読売新聞社 1986年5月5日第1刷

熊倉 功夫 著「近代数寄者の茶の湯」株式会社河原書店 1997年10月10日第3刷

筒井 紘一 編者「美術商が語る 思い出の数寄者」株式会社淡交社 2015年4月4日初版