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有田・伊万里・唐津

  1.  柿右衛門窯
  2.  武雄温泉竹林亭
  3.  大川内山
  4.  唐津焼
  5.  参考図書

 

有田・伊万里・唐津

数年前に有田・伊万里の窯元へ見学に出かけました。日本磁器発祥の地である有田と鍋島藩御用窯の置かれた伊万里、どちらも日本を代表する焼き物の里で是非とも訪問しておきたい地域ですね。訪問する窯元を事前にネットで十分検討のうえで出発!

柿右衛門窯

福岡を朝早めに出発して、いざ有田町へ。柿右衛門、井上萬二窯、源右衛門、今右衛門、香蘭社を巡る予定です。それぞれ“超”がつくほど有名な窯ですから、見学された方もたくさんいらっしゃるでしょうね。

 

有田町へ降りて最初に向かった先は柿右衛門窯でした。駅からやや離れたところにありましたので、時間節約のためにはやっぱりタクシーですね。郊外にある広い敷地の窯でしたが、当日は他に訪問客が数名しかおらず、ゆったりした気分で見学開始....。茅葺の屋根や柿の木もあって、雰囲気が素晴らしい。

 

しばらく古陶磁参考館で展示作品をみていると、4名ほどのグループが到着しました。予約してあったのでしょう、若い男性がグループに色々説明を始めました。興味があったので、邪魔にならないようにそっと一緒に聞かせてもらいました。そのあと「立ち入り禁止」の表示がある扉を通って裏の作業所へ行くようです….。思わず「一寸だけ中に入れますか?」と図々しく聞いてみました。するとグループの中の女性(後で聞いたところ佐賀県立九州陶磁文化館の学芸員とか...)が、「一緒にどうぞ」というではありませんか。ラッキー!! もちろん喜び勇んで参加させてもらいました。

 

まず窯から見学が始まりました。大きな煉瓦作りの窯の周囲に赤松の薪の束がうず高く積んであります。この赤松の薪、何とも言えない良い香りがするのです。説明によると、窯にくべる薪の品質にも神経を使っているそうです!さすがですね....。次いで作業所へ。二棟が広間を挟んで隣り合った作業所でした。

 

左側では数名の職人さんが絵付けをしておりました。ガラス張りの部屋で、見学者側に向かっての作業です。それぞれが握る筆先の太さも違い、別々の絵付け作業をするようです。見学者が目と鼻の先の至近距離で見ていても全く頓着せず、静かですが張りつめた空気の中での作業です。日頃から見学者が少なくないな、とその光景をみて推察できました。私の仕事柄でしょうか、手先の動きが気にかかるのですが、皆さん震えもなくしっかりした手つきです。さすが柿右衛門窯各人がマイスターなのですね。

 

右側は器を作る作業所です。やはり数名の方が仕事中でしたが、奥に向かって縦長の部屋なので詳細な見学は難しい….。作業所は整理整頓されており、雑然とした所はありませんでした。短時間の見学でしたが、大変有意義な経験をさせていただきました。グループの人達を見送った後で、案内の男性と一緒に展示場の前で記念撮影……。展示場では十四代柿右衛門の濁手の壺や大皿、柿右衛門窯の色々な食器を鑑賞。大きな壺や皿はさすがに魅力的.......しかし、窯元とはいっても良いものは高価です。いろいろ悩んだ末、今回は変わった形状の組皿をお土産に購入しました。

 

その後、柿右衛門窯の目と鼻の先にある井上萬二窯を見学。井上萬二先生がおいでになり、少しお話出来ました。人間国宝になられた直後でしたが、偉ぶったところのない気さくな先生でした。お昼を挟んで予定通り源右衛門、今右衛門、香蘭社を回りました。

 

つい最近某テレビ局の番組で第十五代柿右衛門襲名を放映しておりました……まさにあの案内して下さった男性でした。

濁手 桜文 花瓶(第十四代酒井田柿右衛門 作)

 

整った形状の器、空間を活かした絵付け、単純ともいえる図柄や予想外の配色など、琳派の絵画や浮世絵の世界にも共通する「デザイン性」を究極まで追い求めた作品のように思われます。

 

 

錦 撫子文 皿 (柿右衛門窯)

 

形や絵模様が洒落ている5枚組の皿で、時々我が家の食卓に登場します。細筆で丹念に描かれた絵を見ていると、柿右衛門窯の仕事場で真剣に作業されていた絵付け職人

                 の姿が目に浮かびます。


武雄温泉竹林亭

有田町を散策してから本日の宿泊地、かの有名な武雄温泉御宿竹林亭へ。15万坪の庭園に建つ温泉付きの宿は、昭和天皇が行幸されたという由緒あるところです。食事前に庭園(御船山楽園)を散策。庭園というより公園といった感じで、広い広い.........歩くだけで汗が......。ひとしきり散策を満喫してから温泉へ。アルカリ泉で、少し粘り気のある泉質でしたが、地元の方のお話を伺うと嬉野温泉の方がさらに粘っこいとか....。汗をながしてからの食事はたいそう美味しくいただきました。物好きといわれるのを承知で、食後にタクシーを呼んでいただいて武雄温泉共同浴場まで遠征しました。入浴料を払って共同浴場へ。雰囲気を味わった、というところですね。翌朝チェックアウトをするときに、天皇陛下が宿泊されたお部屋を見学させていただきました。

大川内山

有田駅から松浦鉄道に乗ること20数分で伊万里へ到着。そのあとバスに乗って大川内山へ。鍋島藩の御用窯があった場所で、関所を設けて人の交流を厳しく制限していた所です。その当時の雰囲気は何となく感じられるでしょうか。現在は山間の地区に大小様々な窯元が比較的密集した観光地という様相で、散策するのも比較的容易でした。

 

まず向かった先は、竹林亭の仲居さんから品質を保証された「畑萬」。一階は食器主体、二回は工芸品(美術品)中心の展示でした。色鮮やかな色鍋島で、確かに品格があります。コーヒー碗も欲しいし、湯呑にも触手が動きましたが、最終的にはスープ碗と皿をセットで購入しました。現在でもスープを入れるのに重宝しております。

 

次いで鍋島青磁で有名な「長春窯」へ。小さな展示室で、年配のご婦人が一人でお店番.....。お話を伺うと、窯でたくさん焼いても売り物になる青磁は何割かしかできないとのこと。お店の奥の座敷にも、所狭しと青磁が並べてありました。確かに整った形で色も良いものは希少のようです。いろいろな青磁を見て感じることは、長春窯の青磁は他と違って少し緑がかった青色のように見えますね。迷ったすえに、花瓶を購入することにしました。これは不思議なことに飽きがこないので、もう何年も自宅玄関に飾ってあります。

 

ほかに数軒回り、小物を幾つかお土産用に購入してから伊万里駅へ戻りました。

 

器と皿(畑萬陶苑)

 

青・赤・緑・黄色で絵付けされた純和風の意匠、均一で精緻な線....洗練された鍋島様式の食器です。

 

鍋島青磁壺(長春窯)

 

天然釉薬によって生み出された独特の温かみがある青色です。高さ23cmと大きくはないのですが、肉厚でずっしりと重みがあり、存在感があります.....。アラベスクが壺の表面に施され、耳飾りも付いている凝ったデザインですね。

唐津焼

陶器としての「唐津」という名称はずいぶん前から知っておりました。そして現在の唐津市近郊で焼かれた焼き物と漠然と思っておりました。しかし本を読んでみますと、16世紀~17世紀前半に焼かれた唐津焼の窯は200ケ所近く見つかっており、武雄市内(30ケ所以上)と伊万里市内(約30ケ所)が最も多く、唐津藩以外が圧倒的に多いと知って驚きました。何れ唐津市を訪問して気に入った唐津焼を手に入れようと思っておりましたが、歴史を紐解くと、先の考えはとても浅はかであるように思われました。

 

最も古いものは岸岳古唐津七窯で、豊臣秀吉の朝鮮出兵以前に開窯しており、1560年以前に開窯したものもあるようです。文禄・慶長の役(1592~1598)で朝鮮に出兵した諸侯は、帰国の際に多数の朝鮮陶工を連れ帰り、また明の陶工も呼び入れられ、それぞれが陶技を伝えて古唐津の発展に寄与したようです。その後、朝鮮陶工の金ケ江参兵衛(李参平)が1616年に有田泉山の白磁石を使って白磁器を完成し、有田焼へと発展していったことはよく知られていますね。

 

唐津焼には奥高麗、絵唐津、斑唐津、彫唐津、朝鮮唐津、三島唐津、黒唐津、瀬戸唐津、備前唐津、粉引、刷毛目など多種類ありますが、手始めに絵唐津を手に入れてみました。ネット社会の現代では、時間さえ惜しまなければ好みの物を比較的短時間にゲットできます。最初に偶然手にしたのが西岡小十先生の絵唐津で、なかなか味わい深いものでした。そのあと朝鮮唐津、井戸茶碗も手に入れてみました。元々私は井戸茶碗が好きなのですが、十三代中里太郎右衛門先生の井戸茶碗も私の好みにピッタリで、すっかり唐津ファンになってしまいました。

 

「唐津」は確かに魅力的な陶器であることが実感できました。一井戸、二楽、三唐津とか、一楽、二萩、三唐津とか言われますが、ここでいう唐津は古唐津、それも奥高麗をさしているようです。そうであれば、今後はしばらく古唐津を勉強してみましょう。

岸岳系

  岸岳皿屋上窯、飯洞甕下・上窯、帆柱窯、岸岳皿屋窯、道納屋谷窯、平松窯、大谷窯、

  山瀬下・上窯

松浦系

  甕屋の谷、市若屋敷、焼山、道園、阿房谷、多久高麗谷、市ノ瀬高麗神、権現谷、

  牧の欅谷、藤の川内、山瀬、大河原、道園、椎の峯、など

多久系

  唐人古場、保四郎

武雄系

  祥古谷、李祥古場、古那甲の辻、杉の元、猪ノ古場、正源寺、牛石、内田皿屋、小峠、

  川古窯の谷新、大草野、百間、など

平戸系

  

文禄慶長の役以前より、松浦党波多氏の居城であった岸岳城周囲の窯で唐津焼がつくられておりまし(岸岳系)。岸岳古唐津はほとんどが日用雑器で、茶陶はわずかです。岸岳系は藁灰釉(斑唐津)を使った帆柱窯系(帆柱窯、岸岳皿屋窯)、木灰(土灰)釉を中心に使用した飯洞甕窯系(飯洞甕下・上窯、大谷窯、小十官者窯)、前二者の合流系(道納屋谷窯、平松窯、山瀬下・上窯)に分けられます。

 

1594年の岸岳落城 [17代当主 波多 親(ちかし)] により陶工は肥前各地に逃散しました。新領主になった寺沢志摩守広高(1563-1633)は美濃出身で、千利休門下の一人、古田織部重然(しげなり)(1544-1615)と同門です。寺沢志摩守は唐津焼を保護育成したので、岸岳周辺から逃散した陶工と文禄慶長の役で渡来した陶工、明(みん)の陶工達により寺沢領(旧波多領)と鍋島領の各地に窯が開かれました(松浦系)。松浦系には藁灰釉を使用した岸岳陶工を中心とした道納屋谷窯系、織部風の絵唐津・叩きの作品を作った岸岳陶工を中心とする飯洞甕窯系、李朝系の三系に分類されます。

 

慶長の役後に渡来した朝鮮陶工達は鍋島藩内の武雄市、嬉野町周辺にも開窯しました(武雄系)。武雄領主の後藤家信(1563-1622)は慶長の役後に多数の陶工を連れ帰りました。宗伝、その妻百婆仙、息子平左衛門が運営した小峠奥窯、川古窯の谷新窯などの内田山諸窯、黒牟田山諸窯、平古場諸窯、その他に分類されています。

 

平戸系には、1598年平戸藩主で茶人の松浦鎮信(しげのぶ)(1549-1614)が朝鮮から連れ帰った男女125名のうちの陶工を平戸城下に居住させて築窯させた中野御茶碗窯(御用窯)、葭の元窯、柳の元窯などの平戸浦藩内の諸窯(平戸市・佐世保市)、同じく鍋島藩が連れ帰った陶工による原明窯などの佐賀鍋島藩内の諸窯(西有田町・有田町)、同じく長﨑大村藩 [藩主 大村喜前(よしあき)(1569-1616)] の諸窯(波佐見町)、鍋島藩諫早領内の窯(諫早市)があります。

 

多久系には唐人古場窯(多久市)があり、鍋島直茂(1537-1618)が帰国の時に供に加え、多久安順(やすとし)(1566-1641)の軍に入って来日した金ヶ江参兵衛(李参平)(-1655)が開きました。その後、参兵衛は佐賀藩内を探し回り、ついに有田泉山の土を使って白磁器焼成に成功しました。

 

奥高麗は岸岳系、松浦系、武雄系の一部の窯で焼かれ、斑唐津絵唐津黒唐津などは唐津のほとんどの窯で焼成されたました。朝鮮唐津は松浦系の藤の川内窯と高取の内の磯窯で多く生産され、備前唐津は甕屋の谷で焼かれました。瀬戸唐津は岸岳系と松浦系の諸窯で作られたと考えられているようです。

 

美濃と唐津の諸窯は桃山時代から江戸初期にかけて活況を呈した窯業地で、他の窯業地では行われなかった施釉陶を焼成し、また鉄絵具による下絵付という共通点があるため、文禄・慶長・元和にかけて両者の間に交流がはかられました。美濃は鎌倉時代以来の古瀬戸の延長線上に展開し、唐津は朝鮮半島渡来の陶工によって始められました。形状の上では志野や織部は唐津焼の影響をほとんど受けていないようですが、唐津焼には強い影響を及ぼしています。

 

文禄元年(1592)、豊臣秀吉(1537-1598)の名護屋城滞陣に際し、千利休亡き後の茶道の第一人者であり美濃の陶芸を直接指導した古田織部重然が後備の一人として名護屋城に1年半ほど滞在したことも大きな影響があったと考えられています。寺沢志摩守広高も後備の一人として名護屋城に滞在しており、二人の仲は格別だったようで、いわゆる織部好みの唐津焼が数多く焼成されている理由のようです。

白磁器が完成すると、鍋島藩の有田・西有田付近の土物窯はほとんどが石物窯に変わり、今日の有田焼の礎となりました。鍋島藩は1637年に窯場を13か所に整理し、渡来人陶工を中心とした本格的な有田焼産業が発展します。その多くは朝鮮系窯ですが、杵島郡山内町には中国明系の窯があります。1610年代から1630年代頃までは染付が主体で、絵付け前に素焼をしない「生掛け」をしている特徴があります(初期伊万里)。染付技法は中国経由と考えられています。1640年代に色絵磁器が生産されるようになり(古九谷様式初期色絵)、1640年頃から鍋島藩では将軍家や諸大名への贈答用高級磁器を製造する藩窯を立ち上げました(鍋島様式、鍋島焼)。1656年に清王朝が商船渡航を禁止すると、伊万里焼の海外への輸出が隆盛します。1970年代には濁手(にごしで)に絵画的文様を施した「柿右衛門様式」、1690年代に染付の素地に赤・金などを多用した絵付けの製品「古伊万里金襴手」が作製されました。有田で作られた製品が伊万里港から積み出されたので、有田焼は通称「伊万里焼」「伊万里」と呼ばれるようになりました。

 

同じく平戸藩でも石物窯へ転向するものが増え、天草陶石が発見されて有田磁器に劣らない白磁器が完成し、今日の三川内焼(みかわちやき)へ発展しました。大村藩内の波佐見では土物と石物が同時に焼かれておりましたが、藩主が磁器を藩の特産品にする方針を立てて今日の波佐見焼(はさみやき)となりました。波佐見焼の中心は白磁染付と波佐見青磁です。これらの磁器製品は江戸初期に完成し、国内だけでなく海外まで輸出されるようになりました。

 

土物窯として存続した諸窯(唐津民窯)は主に日常生活用品を作りました。今日でも名前が残っている「くらわんか茶碗」も焼かれていました。しかし幕末までにはほとんどが廃窯し、現在まで残っているのは黒牟田山だけのようです。

 

一方、1615年頃唐津藩は多数の陶工の中から中里家、福本家、大島家の初代を御用焼物師に任命して藩御用の焼物を焼かせました(唐津藩窯)。初め椎の峯で焼成され、平素は日常雑器、年1回藩御用のものが焼かれました。それらは伊万里港から全国各地に積み出されました(唐津物)。1707年唐津市坊主町に中里家、大島家の者により御用窯が築かれ、さらに1734年に唐人町に移され明治4年の廃藩置県まで存続しました。1616~1733年までに焼成されたものは「土井唐津」、1734~1871年までのものは「献上唐津」と呼ばれています。藩窯の陶工達の最高位は御茶碗師頭取(「士」)と呼ばれ、代々中里太郎右衛門家まはたその兄弟達が就任しておりました。廃藩後、大島家は陶業より離れ、中里太郎右衛門陶房が存続しております。

 

十二代中里太郎右衛門(得度して無庵)は伝統的な古唐津の技法を復活させて人間国宝に認定され、唐津焼の再興に成功しました。十三代中里太郎右衛門(得度して逢庵)は唐津焼の起源を精力的に研究し、「唐津焼の研究」で京都造形芸術大学より博士号を取得されました。今日では唐津市内に唐津焼窯元が70近くあるなど盛況のようですね。

 

https://www.karatsu-kankou.jp

不東識箱 蓋表「唐津茶碗

     蓋裏「西岡小十 作 山里ト云 不東識」

       (口径13.2~13.8cm・高さ7.9 cm・高台径6.0cm・重量368g)

 

朝顔形のお茶碗で、胴と見込みには轆轤目が幾重にも回っています。見込みの轆轤目には変化がつけられ、口縁に近い方は繊細で密、茶だまりに近い方は太く疎になっています。高台は片薄の輪高台で、高台と畳付は赤茶色の土見になっており、高台内にはざっくりヘラ削りが入って縮緬じわが見て取れます。腰から高台にかけてと茶だまりには梅花皮も見られますね。

 

釉薬は全体に薄めで、胴の灰白色に見える所には鉄絵で簡素な絵付けがされています。釉が極薄い(?)部分と見込は赤茶色の土の色を灰白色のフィルターを通して見ているような桃色ともオレンジとも形容しがたい不思議な色を呈しています。山里の夕暮れを想起させる色合いからの銘でしょうか。

 

見た目は地味でパッとしないような感じでしたが、お茶を点ててみると以外にも抹茶の緑がそれはそれは綺麗に映えて大変驚きました。

共箱 蓋裏 太郎右衛門造 唐津 山居 トス 花押 鵬雲斎宗室筆

   箱書 「唐津井戸茶盌 十三代 太郎右衛門 御茶盌窯(印)」

      (口径14.9cm・高さ8.6cm・高台径5.3cm・重量439g)

 

大型のお茶碗で少し重量感があります。轆轤目はとても繊細で上品です。また腰付近のヘラ削りには逡巡のない潔さを感じました。井戸の約束である見込みの削り込みと目跡(めあと)、竹節高台、三日月高台の中の兜巾、梅花皮(カイラギ)がシッカリとみられます。硬く焼き締まっていて、指で叩くとスコーンと心地よい音が響きます。

 

器肌は均一の渋い枇杷色で、高台脇の印銘の部分だけが土見になっていて、薄いオレンジ色(狐色)のざらめいた土味が鑑賞できます。胴には厚くかけられた釉薬が流れて景色を作っているところがあり、ここは鼠色にみえます。見込みにも口縁から1~2㎝下に筋状の釉模様が全周の2/3くらいにかかり、鵬雲斎宗匠はこれを山に見立てたのでしょうか....。

 

逢庵先生は著書「唐津焼の研究」のあとがきに「古窯跡に足繁く通い、貴重な陶片を拾い集めた」「自身の研究のため、出土地のはっきりした陶片は陶片屋から、伝来品は古美術商から購入し、本格的な蒐集活動に入った」と述懐しておられます。「当初買い集めた古唐津・初期伊万里はほとんどが偽物で、随分勉強代を払わされた」との記述には、思わずニンマリさせられました。私も同じような失敗をしましたものね...。

 

唐津焼を深く研究された逢庵先生がこのお茶碗に込められた”思い″を感じとるには、私はまだまだ勉強不足だとは思うのですが、”奥高麗茶碗に類似の素材を用いた十三代太郎右衛門仕立ての「現代版」高麗茶碗”との意匠はあるように思います...。

 

実際に使ってみますと、手持ちの感触は良く、抹茶の緑が綺麗にみえます。また飲み終えたあと、見込みの抹茶がスッキリと落ちてきます.....切れ味はよいですね。装飾を排した地味目のお茶碗に見えますが、色々なお茶碗と比較すると不思議なことに品格が感じられるのですね。私はきっと長く飽きずに使い続けることでしょう。

参考図書

谷川徹三 川端康成 監修「日本の陶磁5 唐津」中央公論社 1989年4月25日発行

林屋晴三 十三代中里太郎右衛門 監修 「野趣の美 古唐津の流れ-桃山から江戸ー」

                        読売新聞西部本社発行 1993年

成美堂出版編集部「やきものの事典」成美堂出版 2009年3月20日

矢部良明 著「日本のやきもの鑑定入門」株式会社東京美術 2010年8月20日初版第1刷

荒川正明 監修 「やきものの楽しみ方完全ガイド」株式会社池田書店 2012年5月19日

 

西岡小十 著「唐津古陶の伝統を求めてー西岡小十とその作品ー」

                      株式会社主婦の友社 1989年6月10日

中島誠之助・中島由美 監修「やきものを楽しむ 唐津焼」

                      株式会社小学館 2003年7月8日

青柳恵介 荒川正明 川瀬敏郎 西田宏子 著「唐津 やきものルネサンス」

                      株式会社新潮社 2004年3月10日発行

中里逢庵 著 「唐津焼の研究」 河出書房新社 2004年5月30日

NHK「美の壺」制作班 編集 「唐津焼」 NHK出版 2008年2月25日