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「唐物」入門 - 古染付

コバルトブルーと東西交流 

  染付の歴史は東西交流そのもの

  参考図書 

「青磁」を勉強する

  中国・朝鮮・日本の青磁

  参考図書 

マイ・フェイバリト

「唐物」入門 - 古染付

床の間に飾る掛け軸の良いものがあればとの思いで、とある道具屋さんを覗いてみました。お店には「若」がおいでになり、テーブルの上に仕入れてきたばかりの”やきもの”を並べて品定め中でしょうか...。話の成り行きで、その器についての薀蓄を拝聴することになりました。

 

それは中国明代末期の天啓時代(1621-1627)を中心に景徳鎮民窯で焼成された五客組の古染付と呼ばれる向付で、「作りは粗雑ですが手慣れた職人がのびのびと作陶しているので、こういうものを現代人が再現しようとしても出来るものではないですよ」と熱っぽく語って下さいました。見せていただくと何だか釉薬が剥がれていたりデコボコだったりで、ハッキリ言って現在の磁器の品質に比べて大分見劣りがします。

 

向付の話が一区切りしたところで、本題の掛け軸を何本も見せて頂きました。お店の奥の方から何度も運んできては掛けて下さるのですが、何れもやや古風で、洋風の我が家にはシックリこないように思われました。そこで先の向付に目を向けていますと、何となく惹かれるものが...。「これはお勧めですか?」と尋ねてみますと、「ムチャクチャお買い得ですよ、ホンマに!」と一段高いイントネーションで勧められました。

 

「若」は古染付に興味があり、これまでに随分勉強されているようです。一方、私は古染付という言葉さえ知りませんでした。お店は信用できる所だし、良いものだというお墨付きをもらったような感じだし、折角出掛けてきたのだから...。そんな経緯で、初の”唐物”を思わぬ成り行きから手にすることになりました。

 

器は磁器にしてはやや厚めです。持った時に不思議と冷たい感じがしません...生地に付けられている微妙な色合いの賜物でしょうか。呉須は明るく鮮やかなものから渋めの色調まで五客とも微妙に違っています。また絵付も大雑把な決まりはありそうですが、随分と変化に富んでいます。髭のような線はのびのびとしていて勢いがあり、少しも躊躇いがありません。あまりに面白くて、見ていて飽きがこないのですね。

 

五客組のお蔭で”見て比べる”楽しみを頂戴できました。丈夫な磁器製とはいえ、400年前のものが揃って目の前にあることに幾分心を動かされます。我が家では実用品として大切に使わせていただきます。使い初めはマグロとボタンエビのお刺身を盛り付けてみました。

「阿古陀瓜形向付(四足)」五客

 絵付けは類似していますが、よく見ると多様です。冬瓜(とうがん)と中央に栗鼠(リス)が一匹描かれおり、二客にはもう一匹栗鼠が追加されています。いわゆる「虫食い」、小石・砂の付着、表面のデコボコが目立つものなど、現代から見れば”粗造”と烙印されても仕方がないように思えます。

呉須と呼ばれるコバルト顔料で絵付けをし、透明釉をかけて焼成するようですが、生地は仄かに発色しています。呉須の色調もそれぞれが微妙に違っています。

  わが国で1610年代に朝鮮陶工により開始された初期伊万里は古染付が手本とされています。

裏面は四足の足先だけが無釉になっています。裏面にも呉須で縁取りを入れてあるものが三客あります。小石の付着、染色ムラなどがみられます。阿古陀瓜(カボチャ形を指すようです)に見えなくもないですね。

  茶懐石では折敷の向付として使用されており、茶道具になるかどうかによって器としての評価がずいぶん違うようです。

コバルトブルーと東西交流

染付の歴史は東西交流そのもの

染付と呼ばれる焼物は、白色胎土の器に酸化コバルトを主とする顔料で絵付けをし、長石釉というガラスのような透明釉をかけて高温で焼成した釉下彩磁器をさします。コバルト顔料の使用は、9~10世紀メソポタミアで白釉陶にコバルトで絵付けをしたものや、唐三彩の藍釉・藍彩が知られています。染付の完成は14世紀、元の時代に景徳鎮の民窯で焼かれた「青花(=青い模様)」とされています。

 

元(1271-1368)の青花は、近年のオークションで数十億円で落札されるものもありますね。日本にも120点ほどあり、各地の美術館で見学できます。二大コレクションはトルコのトプカピ宮殿とテヘランのアルデビル・コレクションです。トプカピ宮殿には世界最大の中国磁器コレクション(8000点)があり、元・明・清の染付が約2600点、うち30余点が元の青花だそうです。アルデビルにも元の染付が30数点あるようです。

 

染付はブルー単色で絵付けをしますから、ブルーの色調が生命線になることは明白ですね。もちろん白磁(陶石=石英70%+絹雲母30%, カオリンなどが原料)の質も、とても大事でしょうが...。染付の発祥地である元、次いで明・清ではコバルト顔料はイスラム圏からの輸入物(スマルト,蘇麻離青,蘇泥勃青,回青)か地元のもの(土青: 石子青,平等青,浙青,珠明料)を使用しました。元では蘇麻離青が使われていましたから、染付の歴史は東西交流そのものであることが分かります。日本では呉須といい、中国から輸入されていました。日本の染付は1610年代に有田周辺で初めて焼成され(初期伊万里)、ヨーロッパでは1710年にマイセンで開始されました。

 

陶磁器の交流は、古くは彩陶文化が陸路でイラン方面から中国に伝播したことが知られています。海路については漢の時代から文献に登場しますが、中国の大型船ジャンクで中国磁器が運搬されるようになったのは8世紀以降のようです(南海貿易)。焼物は重いので、運搬は陸路よりも海路のほうが主流だったようです。景徳鎮の磁器はジャンクやキャラック(ポルトガル)、オランダ東インド会社の船で遥々イランやトルコ、ヨーロッパに海を渡って運搬されていたのですね。17世紀以降は日本の製品もそのルートに乗って運搬され、西欧の初期の色絵磁器が柿右衛門様式をお手本にしたことはよく知られています。

 

数年前にイスタンブールへ出掛ける機会があり、念願であったトプカプ宮殿へも行きました。残念ながら台所である中国磁器陳列室は閉鎖中であり、前の廊下を行き来しつつ悔し涙を流したものでした。宝石のコレクションやハーレムは見たものの、大事なものを忘れたような気分でした。落胆したのでしょうね、音声案内を借りる時にパスポートを預けるのですが、返す時にパスポートを受け取らずに宿舎へ帰り、後で慌てて受け取りに行きました。お土産に買ったキュタフヤのカップは、店員がイズニックタイルのようにクリスタル入りだと宣伝していましたが陶器製のようです...。

 

その後まもなくして政治情勢が急に不安定になりましたから、良い時に行ってきたと思い直しております。もし余暇がとれて再び中近東へ行く機会に恵まれましたら、トルコに行くかイランに行くか迷うでしょうね...。その日を夢に見つつ、しばらくは国内の美術館巡りに専念しましょう。

参考図書

斎藤菊太郎 著「陶磁体系44 古染付 祥瑞」株式会社平凡社 昭和47年7月25日初版

矢部良明 著「陶磁体系41 元の染付」株式会社平凡社 昭和49年12月20日初版

藤岡了一 著「陶磁体系42 明の染付」株式会社平凡社 昭和50年4月9日初版

三杉 隆 著「海のシルクロード」株式会社恒文社 1976年6月25日第1版

相賀徹夫 編集「染付と色絵磁」株式会社小学館 昭和55年12月20日初版

大橋康二 監「別冊太陽 染付の」株式会社平凡社 1997年11月16日初版

浦上 満 著「古美術商にまなぶ中国・朝鮮古陶磁の見かた、選びかた」

                        淡交社 2011年2月13日初版

「青磁」を勉強する

中国・朝鮮・日本の青磁

「青磁」は酸化第二鉄を含有する植物灰を主成分とする青磁釉を器体に施し、1200度以上で還元焼成(酸素不足の不完全燃焼)することにより酸化第二鉄を酸化第一鉄へ変化させ、素地の土の色を透かして青~緑にみえる焼き物です。酸化焼成すると白色~茶色に変化するのですね。貫入は焼成時の土と釉薬との収縮率の差によってできるヒビで、装飾効果をもらたしています。

 

「青白磁」は精製されて不純物が少ない白色の磁土を用い、透明釉の中の微量の鉄分が還元焼成されて青味を帯びた白磁の一種です。一方、「青瓷」という言葉は、現代作家が青磁を作るときに”中国宋代官窯の主に陶土を素材にした青磁に倣って作成している”ことを示しているようです。

 

青磁の起源は浙江(せっこう)省の越州窯を中心に漢時代(前206~8、25~220)に作成された朽葉色で渋い色調の古越磁(こえつじ)(古越州の青磁)とされています (図1)。その後、唐(618~907)前半までは白磁の陰に隠れてしまいますが、晩唐には青い釉色の「秘色」と呼ばれる最高級の青磁が越州窯で作成されました (図)。そして北宋(960~1127)~南宋(1127~1279)に至って青磁の黄金期を迎えることになります。

 

北宋時代には、陜西(せんせい)省の耀州(ようしゅう)窯(かつて汝窯と呼称)でオリーブグリーンに刻花紋・印花紋が施された青磁(いわゆる北方青磁)が生産されました (図2)。日本をはじめ欧米にも遺品はかなり多く存在します。一方、北宋宮廷の器を焼いた河南省汝官窯の青磁は淡い水色で紋様がなく、中国陶磁の至宝とされ世界で100点もないようです (図3)。

 

南宋時代には、浙江省の南宋官窯で鉄分が多く黒ずんだ胎土に青磁釉が厚くかけられた青磁が焼成されました (図4)。北宋の汝官窯とともに中国陶磁の至宝とされています。また同じ浙江省の龍泉窯では青緑色のいわゆる砧(きぬた)青磁が作られました (図5)。遺品は大変多いそうですが、名品は日本に多く存在するのですね。

 茶陶で有名な珠光青磁は南宋時代に浙江省の南隣の福建省 (同安窯・泉州窯) で焼かれたもので、生産量も多かったようです (図6)。

 元(1279~1368)~明(1368~1644)の初期には、龍泉窯の青磁は暗黄緑色のいわゆる天龍寺青磁に変化し、明の中頃には葱青色のいわゆる七官青磁に移行しました。また元時代には鉄斑文を散らした、いわゆる飛青磁の装飾が生み出されています (図)。一般には時代が下るにつれて徐々に質が低下して宋時代の格調の高さは失われ、さらに景徳鎮窯の隆盛もあり、明中期に龍泉窯は衰退しました。

 

清(1644~1912)の初期には、景徳鎮の官窯で青磁の名器の模倣製作が行われています。

高麗青磁の起源は中国越州窯とされています。その後、宋との交流が進み、その影響を受けつつ高麗青磁独自の形・色・意匠が確立し、12世紀の前半に翡色青磁という釉色、後半には象嵌青磁という装飾技法が完成します。

日本では江戸時代に入って肥前・有田、鍋島、三田、京都などで青磁が生産されていました。中でも三田青磁は最も美しいといわれています。明治以降には諏訪蘇山、板谷波山、小森忍、濱田庄司、河井寛次郎、石黒宗麿などが青磁を制作しました。そして岡部嶺男、清水卯一、三浦小平治により日本独自の青磁が生まれ、現代では多数の作家が青磁に取り組んでいます。

参考図書

小山富士夫 著「陶磁体系36 青磁」株式会社平凡社 昭和53年4月26日初版第一刷発行

大阪市立東洋陶磁美術館 編「高麗青磁への誘い」 1992年10月10日発行

今井 敦 編「中国の陶磁4 青磁」株式会社平凡社 1997年4月9日初版第一刷発行

今井 敦 著「日本の美術 第410号 宋・元の青磁・白磁と古瀬戸」

                        至文堂 2000年7月15日発行

炎芸術「艶なる青磁」 阿部出版株式会社 2007年8月1日発行 

NHK 美の壺 制作班 編「青磁」NHK出版 2008年6月30日第1刷発行

マイ・フェイバリト

外箱 黒塗

内箱 蓋表「蓬莱青瓷茶盌 卯一(清水 朱印)」 

        (口径14.7cm・高さ6.6cm ・高台径4.0cm・重量286g)

 

清水卯一先生(1926-2004)は京都市東山区五条の出身で、1940年に石黒宗麿先生に師事、1941年に国立陶磁器試験所(京都)に入所、1943年京都市工業研究所窯業部助手、1945年終戦とともに職を辞して自宅陶房で作陶を開始、1970年滋賀県の比良山麓に転居して蓬莱窯を築かれました。そして1985年に人間国宝に認定されました。

 

清水先生は石黒宗麿先生と同様に、土・石・釉薬の収集と調合、ろくろ成型、釉掛け、焼成にいたるまで作陶に必要な総ての作業を自身で行うスタイルでした。蓬莱の地では自分に合う土や石を探し続け、また数えきれないほどの釉薬を開発されましたが、そのほとんどは地道な研究と試作の繰り返しにより得られたということです。

 

 この蓬莱青瓷茶盌は、下に引用した図録に紹介されている1985年作の蓬莱青瓷華花瓶と作風が良く似ており、同時期に制作されたものではないかと推測いたします。端正な朝顔形、口造りは端反りでシャープ、土見で片薄・巴の輪高台~高台脇には意匠を凝らしたヘラ削りと小さく鮮明な「卯」の印銘が見えます。

 

高台~腰の厚みに比べ口縁近くは一段薄造りになっており、重心が下にあるためか手持ちは少し重く感じます。見込みは大小様々な形の切り紙を重ねたような貫入紋様と、濃淡ある浅葱(あさぎ)色~やや黄色味がかった~口縁近くはほんのり赤みを帯びた、色調の微妙な変化が加わって、目を楽しませてくれます。ここに湯を注いだとき、驚いたことに、明るくて鮮烈なライトブルーに変化したのです。

 

口造りが薄くて硬質なため、陶器のお茶碗とは口当たりが違いました。また、平素いただいている抹茶の味が違っているように感じました....よりストレートに感じるというか...。同じ抹茶なのに不思議なものですね。お茶碗によって味が変わるんだということを、この青瓷盌を通して初めて実感致しました。そして喫茶の歴史、青磁や天目の唐物茶碗から始まり、室町時代に高麗茶碗が見立てられ、桃山時代に和物茶碗が誕生したという史実に思いが至りました。

 

 

別冊炎芸術「青磁  清澄な青の至宝]」阿部出版株式会社  2017年12月15日初版第1刷発行

祥瑞写茶碗 二代宮川香山

 箱 蓋裏「香山造 祥瑞写茶碗(鵬雲斎 花押)」

   箱裏「呉祥瑞意 眞葛香山作(眞葛香山 朱印)」 

  (口径11.6cm・高さ7.9cm ・高台径7.0cm・重量415g)

 

腰から胴にかけて12列の立体的なねじりを入れた独特な造形のお茶碗です。この凹凸は形状に変化を与えているだけではなく、熱を伝わりにくくするという実用的は側面もあります。12列のねじった空間とその上部(口縁下)には呉須で、隙間なく丹念に、総て違った模様が手書きで描かれています。口紅を引いた口縁の見込み側にも模様が描かれ、丹精込めた仕事ぶりが伺えます。

 

”写し”とありますから、この魅惑的なお茶碗の原本はあるのでしょうね...あるなら是非一度実物を見てみたい...というのが第一印象でした。同様のお茶碗を作製していらっしゃる作家先生とお話しする機会がありましたが、原本がどこにあるのかご存知ありませんでした。また苦労して器を作り絵付けしたものが、最後に売り物になるのは40%程度だということでした。

 

ねじりを入れるには厚みが必要ですから、重くなるのは致し方ないところでしょうね。それを差し引いても余りある独創性・珍しさがありますし、使い勝手も良いものですから、普段使いのお茶碗として大変重宝しております。

 

関 和男 著:「明治の釉下彩1 宮川香山釉下彩ー美術となった眞葛ー」

                株式会社創樹社美術出版 2018年8月15日発行

宮下玄覇 編者:「茶道実用手帳2019」株式会社宮帯出版社 2018年10月8日第1刷発行

共箱 蓋表 祥瑞寫湯呑

   蓋裏 九谷清々軒 永壽造 (永寿 朱印)

     (口径7.3cm・高さ8.5cm ・高台径4.8cm・重量171g)

 

初代矢口永寿(1870~1952)(号 清々軒)は1904年に山中町に永寿窯を築窯し、京都から永楽和全の門下生滝口加全らを招き京風の陶磁器を製作しました。1906年には清水六兵衛門人の外山寒山も招き、他にも能美や金沢から多数の工人を集め、染付工であった戸崎勘三郎は京都で修業し秀でた腕を持っていました。永寿自身は陶土に触れず筆を持たなかったといわれ、自分の好みを示して作品の質を向上させ、九谷焼の名工と称せられるに至りました。

 

この祥瑞写湯呑は胴の下2/3に16列の縦襞がある凝った作りで、そこに呉須で総て違う絵模様・山水画が細密に描かれ、上1/3には漢字と幾何学模様が見えます。口縁には約束通り口紅があり、見込みの上1/3にも総て違った景色の山水画が丁寧に描かれています。

 

全体に絵付が丁寧で手の込んだ作品です。湯呑碗にこれだけ手間暇かけることは現代社会ではないでしょうね。実際に使用してみると、お茶を飲むときに見込みの鮮やかな景色が目に入って、楽しくお茶が頂けました。