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楽焼に触れてみました

  楽美術館で学習

  祇園の道具屋さんへ

  マイ・フェイバリト

楽茶碗鑑賞記

  本阿弥光悦の抹茶碗

  仁阿弥道八の利休七種写茶碗

  「三井家伝世の至宝」から 

  「茶碗の中の宇宙 楽家一子相伝の芸術」

  参考図書

楽焼のあゆみ

 

茶道事始め

  大徳寺茶会記

  茶道と禅

  七堂伽藍の秋景色:永平寺

  茶聖の故郷・堺

  参考図書

 

楽焼に触れてみました

楽家の表通りにて
楽家の表通りにて

楽美術館で学習

先日京都へ楽焼を見に出かけました。楽美術館の見学と、無謀にも適当なものがあれば購入したいと思って出かけたのです。私は楽焼を真剣に見たことも実際に触ったこともありません。そこで、まずは楽美術館で基本的な事項の学習から始めようと思いました(2014/3/15)。

 

地理に不案内のためタクシーで目的地へ...。京都の街中とはいっても、とても静寂な環境です。私の住んでいる町より静か...。美術館は想像していたよりこじんまりした印象。最初に歴代の作品が陳列された2階建ての展示室を回りました。ガラス越しながら、本で予習しておいた赤楽、黒楽などをじっくり見学することができました。

 

ついで、事前に申し込んでおいた楽茶碗を手にできる鑑賞会に参加しました。楽茶碗二碗を実際に手にしながら解説員の説明を聞くものです。参加者は15名くらいで、男性3名、女性12名でした。別棟があるんですね。草履に履き替えてぞろぞろと露地を移動。初めに躙り口から茶室(「小間」)に入って、楽家の茶室の雰囲気を味わいました。狭いのですが、全員入ってもぶつかり合うほどではありません。詫び寂びの精神が何となくわかるような...。

 

そのあと隣の「広間」に移って鑑賞会が行われました。一碗目は6代左入の赤楽茶碗、銘桃里でした。やさしい色調が印象的...。二碗目は14代覚入の黒楽茶碗(平茶碗)です。年代が新しいのは見て直ぐにわかりました。実物を手にしないと目があがらないとの思いがあって参加しましたが、手にする時間が短いのと元々の知識や経験が乏しいのとで、終わった後に記憶として残ったものは窯傷の金継ぎと、........。やはり場数を踏まないとだめですね。それと、最も手にとってみたかった利休形の黒楽茶碗にはお目にかかれませんでした。残念。

有名な本阿弥光悦筆とされる暖簾...植栽の陰になりますが見えました
有名な本阿弥光悦筆とされる暖簾...植栽の陰になりますが見えました

祇園の道具屋さんへ

何となく己の鑑賞眼のなさを自覚させられながら向かった先は、自他ともに認める日本一の楽茶碗専門の道具屋さんでした。これも予め予習をしておいて、迷わないで訪問することができました。一見の客なのでやや心配でしたが、店主自らが丁寧に説明して下さいました。

 

大物相手の商売が多いのは、話の節々から伝わります。当方の懐具合などもお見通しなのでしょうが、そんな態度は微塵も感じさせません。その接客態度たるや、さすが祇園界隈!と感嘆いたしました。そこで得られた体験は、私の今回の京都旅行...いやいや、今までの陶芸を巡る旅の中でも...一番の宝になりました。

 

まず最初に箱から出して頂いた6代左入の黒楽茶碗は、持ってみると手に吸い付くように馴染み、品格もある!「あー、これが楽茶碗なんだなー」と心底思いました。陳列ケースの数碗も見せていただきながら話を伺っているうちに、何としたことか3種類の名碗を見せて頂けたのは今から思うと奇跡のような感じです。

 

まず4代一入の朱釉の黒楽です。見た中では幾分小ぶりに思えましたが、美しい!! 黒に深みのある朱色が調和して実に気品があります。今回いろいろ見た中で最も美しいと思いました。こんな茶碗でお茶がいただけたら、どんなにか美味しいだろう....。つぎが5代宗入のかせ釉の黒茶碗。黒茶碗というより銀茶碗といった趣。初めて見る色調で、ただただ唖然とするのみ。

 

最後に、何と何と、初代長次郎の黒楽茶碗! 確かに本に載っていたあのくすんだ硯のような色調でした。手に取ることを許されたのは得難い経験ですし、今後二度とないように思います。見た目は地味で、一見魅力的には思えません。文化財として美術館に陳列しておくべきもののように思えました。しかし、よくよく考えてみると実際にお茶をたてた時に抹茶の緑が見込の内でどのように映えるのか、両手で抱えてお茶を口に含んでみた時に何を感じるか、は極めて僅かの幸運な人しか経験できない世界ですよね。長次郎の黒茶碗を恐る恐る手にし、余すところなく記憶に留めようと穴が開くほど拝見.......。しかし残念ながら自分の実力では「長次郎」が見えてこないのです。相手の格があまりにも上過ぎるため、私の方が委縮してしまったという面もあるかもしれません。長次郎と相対するには、今しばらく自分を磨く時間が必要のようです。

 

最後に貴重な経験をさせていただいたお礼を丁重に述べてお店を出るときに、店主は深々と頭を垂れて「ありがとうございました」と言われました。今回の京都の旅は日本文化の奥深い一面を垣間見ることができた、とても貴重な旅でした。

 

それにしてもなんという個性豊かな茶碗でしょう!樂家では製法を次代に教えないのが習わしだということで、歴代は考え抜いて、工夫して、何度となく失敗して、最後に独自の作品を作り上げたことでしょう。目上がりしたのか、欲しいと思えるものは高級独車の新車をも凌ぐ価格帯(長次郎はさらに一桁ちがいます!)のため、残念ながら購入には至りませんでした。これからコツコツ貯金して、将来一碗所有したいという思いをつのらせながら京都を後に致しました。

祇園白川のせせらぎ
祇園白川のせせらぎ

マイ・フェイバリト

内箱蓋裏「長入作 黒茶碗 楽吉左衞門 (了入中印)

外箱箱書 直入極書付

         (口径12cm・高さ8.6cm・高台径5cm・重量319g)

 

楽家七代長入(1714~1770)の在印黒茶碗で、長入の次男である楽家九代了入(1756~1834)極箱に入り、十五代直入(1949~)極箱が外箱になっています。長入のお茶碗は大振りの厚作という記載を見かけますが、箆を大胆に使って内外を削ぎ落としたためでしょうか、手持ちは思いのほか軽やかで見込みもたっぷりしています。

 

形状は素直な半筒形で、口造りは少し内に抱え緩やかな起伏が付けられています。高台脇から腰にかけて全く逡巡のない浅い横箆4本がキッパリ入り、胴には変化に富んだ箆削りが全面に回っていて手持ちの良さを引き出しています。また茶溜りが右渦の巴に削り出されているのは長入の特徴のようです。

 

口縁の五つの起伏を「五岳」とよび、長入から一つの型になったとされ、中国の五霊山(東岳泰山、南岳衡山、西岳崋山、北岳恒山、中岳嵩山)になぞらえての名称ということです。中国で「五山」といえば南宋時代の臨済宗の最高の寺格を示す五つの官寺を指し、京都にも五山はありますね。一方「五山送り火」については、長入の時代にその名称があったかどうか分かりません。何れにしても楽茶碗の「五岳」は祈り...?。

 

総釉掛けの高台は低く、ほぼ正円形の整った形状で、五徳目も三個綺麗に入っており、真ん中の樂印も丁寧に刻印されています。この高台からは真面目で几帳面な性格のように感じられますが如何だったのでしょう...。

 

釉調が出色でとても驚きました。基本は長入の特徴とされる艶やかな黒釉ですが、高台・胴・茶溜りには一入の特徴とされる朱釉が箆削りの縁に所々薄っすらと現れており、見込みの表面はスベスベして滑らかですが景色は宗入・左入のようにカセているのです。歴代の釉技を昇華したような強烈な印象を放っています。

 

同じ作者の楽茶碗でも出来不出来はやはりあるのでしょうね。また歴代の作者の間にも色々な専門家の評価はあるようです...。私見ですが、それぞれの碗には作者の気持ちが凝縮されていると思いますので、自身でそれを素直な目・心で受けとめる、そうした態度で作品を鑑賞するとまた新たに見えてくるものがあるように思います。そうして惚れ込んだお茶碗には当然愛着が湧きますよね。

共箱蓋裏「宗入作 黒茶碗 頭巾 (花押)」啐啄斎宗左 筆

外箱蓋裏「宗入作 黒茶碗 銘 頭巾 啐啄斎箱 左(花押) 」而妙斎宗左 筆

外箱箱書  直入極書付

                          (口径10.3cm・高さ7.9cm・高台径5.0cm・重量374g)

 

楽家五代宗入(1664~1716)の黒茶碗で、表千家八代啐啄斎(1744~1808)により「頭巾」の銘が与えら、外箱は表千家十四代而妙斎(1938~)と楽家十五代直入(1949~)の極書があります。

 

宗入の曾祖母は本阿弥光悦(1558~1637)の姉で、宗入と尾形光琳(1658~1716)・乾山(1663~1743)とは従兄弟関係にあることは有名です。2歳で楽家四代一入(1640~1696)の養子になり、後に一入の娘と添い遂げています。楽家歴代中で最も長次郎に近い茶碗を作ったとの評価もあるようです。

 

胴締めの半筒形で、やや厚作のため手持ちすると重厚感があります。口縁はぽってりして少し内に抱え、緩やかな起伏が付けられています。総釉で無印、畳付に五徳目が3個、一重高台の内に低い兜巾が見られます。高台の内縁底に浅い穴が2個並んで設けられており、何か意味があるのでしょうね。

 

高台から腰にかけての器肌はスベスベして光沢があります。箆を使った作りでしょうが、箆削りの痕跡は分からないくらい滑らかです。胴締めの上部からは艶消し~柚子肌になり、見込みは一転して宗入の特徴とされる「かせ釉」に覆われ、明瞭に削り出された茶溜りの周辺は再び光沢ある釉景色に変化しています。

 

一見地味なようですが、かなり技巧を凝らした作りになっているような印象です。銘の頭巾について、高麗茶碗にも頭巾(一名「紹鷗頭巾」)の銘があるお茶碗があり、大正名器鑑には「形大黒だいこく頭巾に似たるを以て名つく」の記載があります。

 

利休百回忌(元禄3年:1690年)に居合わせたこと、従兄弟の尾形光琳・乾山と同時代に生きたこと、元禄という社会情勢等が宗入の作陶に影響したことは確かなのでしょうね。

共箱蓋裏「ノンカウ 赤茶碗 東雲シノノメ (花押)」啐啄斎宗左 筆

 

                          (口径10.8cm・高さ8.3cm・高台径5.0cm・重量233g)

 

楽家三代道入(1599~1656)は二代常慶( ~1635)の長男で、嗣子は四代一入(1640~1696)、また本阿弥光悦(1558~1637)との交流は良く知られています。千家との関連では千家三代宗旦(1578~1658)とほぼ同年代に生きたことになり、表千家江岑宗左コウシンソウサ(1613~1671)、裏千家仙叟宗室センソウソウシツ(1622~1697)、武者小路千家一翁宗守イチオウソウシュ(1593~1675)とも年代が重なります。

 

年代からみて道入は実父常慶と一緒に作陶した期間が長く、本阿弥光悦との交流も十分ですが、長男一入とは短期間だったのですね。常慶と光悦とは同年代ですから、両者からの薫陶を受けて道入の作風は形成されていったのでしょう。一方、実生活において道入は貧窮していたと伝えられています。

 

元伯宗旦は10歳ころ大徳寺に預けられ、1594年千家再興が叶ったことから還俗しています。若くして応・燈・関の臨済宗寺院で修行したのですから、清貧で「乞食宗旦」と呼ばれたのも十分理解できます。宗旦の好みの道具を作ったとされる道入の生き様には宗旦からの影響もあったのでしょうね。

 

椀形ワンナリの整った形で、薄造り、軽量です。見込みは広く、奥に向かって均一に深く削られています。胴は軽く締めてあり、手持ちは良いですね。口造りは所謂は”蛤端ハマグリバ”です。高台の畳付きは広く、そこに嫌味のない箆削りが入り、中央に渦巻状の兜巾が立って変化に富んだ造りになっています。

 

ノンコウの赤楽は1000度以上の高温度で焼成されていると聞きました。胴から腰にかけて熟柿色の濃い肌合いに僅かに黄色が入り、淡黒色の窯変がみえます。少しざらざらした手触りは砂釉によるものですね。見込みの特に胴の裏側はカセていて、底には筆で描いたような黒い模様があります。このカセた見込みが水を吸うと綺麗な赤色に発色して本当に驚きました。「東雲シノノメ」とはよく命名したものです。

 

こうした変化を見越してノンコウは”赤楽のカセ釉”を作り出したのかもしれません。何しろ稀代の芸術家である光悦が「今の吉兵衛は至て樂の妙手なり 後代吉兵衛が作は重宝すべし」とべた褒めしているくらいですから。

楽茶碗鑑賞記

本阿弥光悦の抹茶碗

東京国立博物館で開催されている「本阿弥光悦の大宇宙」へ行ってまいりました。本阿弥光悦(1558~1637)は織田信長(1534~1582)、豊臣秀吉(1537~1598)、徳川家康(1542~1616)が勇躍した桃山から江戸初期の傑出した芸術家ですね。コロナ禍があけて本当に久しぶりのトーハク入場でした。

 

本阿弥光悦のまとまった作品を鑑賞するのは初めてです。第1章 本阿弥家の家職と法華信仰-光悦芸術の源泉、第2章 謡本と光悦蒔絵ー炸裂する言葉とかたち、第3章 光悦の筆線と字姿ー二次元空間の妙技、第4章 光悦茶碗-土の刀剣、の4部構成でした。国宝6点、重要文化財20点、重要美術品7点が含まれおり、見ごたえのある展示会でした。

 

今まで国宝の日本刀は何本か見ておりましたが、実はあまり興味が湧かず記憶にもほとんど残っておりません。今回「本阿弥家」という切り口から刀剣の展示を拝見すると意外に面白いのですね....本当に不思議でした。

 

俵屋宗達(生没年不詳)下絵、本阿弥光悦筆の「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」には二人の芸術家の技が遺憾なく発揮され、かつ見事に調和していて惹きつけられるました。気品に満ちて、爽やかで、魂が慰められ浄められます。人波に流されながらそんな思いが湧き、また最初に戻って流麗な墨の線を無心に追い、再度列の初めに戻って鶴の群れの姿・形、動・静、その背景、総てに惹きつけられ...。

 

さて抹茶碗ですが、今回は光悦(1558~1637)11碗(黒楽3碗、赤楽5碗、白樂2碗、飴釉1碗)、長次郎(~1589)と道入(1599~1656)は各2碗(黒楽と赤楽が各1碗)展示されておりました。三者の楽茶碗を比較することにより、光悦の特質が浮かび上がるような企画のようです。

 

光悦は釉薬や土を楽家から譲り受けたり、お茶碗も黒楽は楽家で焼いてもらったことが成書に記載されております。光悦と道入との親交は深かったようです。道入は長次郎茶碗に種々の工夫を加えて革新し、楽家歴代一の名工と評価されておりますが、そこには光悦の影響があったようです。

 

一方、光悦茶碗は造形、釉調ともに際立って斬新です。どのお茶碗をみても色彩の豊かさはどうでしょう!気品があってほれぼれします。小堀遠州が品川林中のお茶屋に将軍家光を迎えて献茶された際に、その控えの茶碗として用いられたのが光悦に依頼して作製された膳所光悦茶碗でした。当時の光悦の茶道界における評価が伺えるエピソードでしょう。

 

ケース越しの観察ですから胴から腰、口造り、見込みが見て取れました。「厚薄」の形容が良く分かります。沓形ほどには歪んでおりません。時雨や雨雲にしても外表の多彩な色調に比べ、お茶の入る辺りは釉薬がきちんと掛けられていて、綺麗でカセていないように見えました。ショップによって図録をみますと高台が総て掲載されております。編集者のお考えが十分伝わりますね。

 

あれあれ、光悦展をみるだけで3時間が経過致しました。他に沢山の展示があるけれど、そろそろタイムアップのようです。この図録は重いけれど手元に置かないといけないわ。それと絵ハガキを記念に購入致しましょう。

仁阿弥道八の利休七種写茶碗

京焼の名工仁阿弥道八の展示会(「天才陶工 仁阿弥道八」サントリー美術館) に行き、沢山の作品を見てきました(2014/12/28)。青磁象嵌、黄伊羅保、祥瑞、楽焼、色絵や銹絵の鉢・皿・急須、人物や動物を彫塑的に仕上げた色絵作品、等々多岐にわたる焼物が出品されていました。それら総てが見事な出来栄えで、とても驚き感心しました。

 

楽焼の中で興味深かったのは「利休七種写茶碗」でした。原本は長次郎(+α)が作った茶碗のうち、千利休の思想にかなったものとして特に選ばれたもののようです。しかし現存するものは3碗しかなく、楽家6代左入の「写し」が存在し、それを道八が写したものということです。楽家には7代長入の写しがありますね。ノンコウの時代から写しが作られているということですから、他にもあるのかもしれません。道八の写しも7碗揃っているのですから貴重なものですよね。

 

焼失したか所在不明な「鉢開」「木守」「臨済」「検校」は知りようもありません。現存する「大黒」「東陽坊」「早舩」の画像や、他の長次郎茶碗から類推すると、左入の写しは形の写しであって、釉薬等までは写していないように思われます。道八が左入の作を相当正確に写したという仮定での話ですが...。従って今回の展示作品は道八が写した「左入の七種」ということでしょうね。私が魅かれたのは色がきれいで見事な貫入が入っている4種類の赤楽茶碗でした。艶やかな黒楽のほうは静かな佇まい、一方赤楽は華やいだ雰囲気...茶席にも両方の要素が必要と左入は考えたのでしょうか...。

 

「写し」は物真似のように思われがちです。しかし、よくよく考えてみると原本が一流であればあるほど、優れた観察眼と高度な技術がなければ人前に出せるものなど到底できるわけがありません。ましてや楽家以外の人間ですから、写しを作るのは並大抵のことではなかったはずです。展示会のタイトル「天才陶工」とは良く付けたものだと思いました。

 

楽茶碗では他に「蝶文黒茶碗」の繊細な蝶、道入の作風にならった「冨岳文黒茶碗」が目を引きました。また野々村仁清の作風を取り入れた「色絵筋文入子茶碗」なども印象に残りました。19世紀という幕末の京都は、きっと華やかで明るい雰囲気の町だったのでしょうね...などと京焼の秀でた陶工が残した作品群を見ながら思いを巡らせました。

「三井家伝世の至宝」から

2015年12月のとある週末に三井文庫開設50周年・三井記念美術館開館10周年記念特別展へ行ってきました(2015/12/20)。茶碗や絵画・書跡など私の興味あるものが展示されますので、この美術館に足を運ぶ機会がついつい多くなります。既に何回か拝見したものもありましたが、今回は他の美術館所蔵の貴重なものも出展されていました。

 

楽茶碗では長次郎「俊寛」「菖蒲」、道入「鵺」、光悦「時雨」「雨雲」の展示がありました。「俊寛」、いいですね。艶消しの黒釉、長次郎のうちでは艶やかでしょうか、しっとりした落ち着きのある魅力的な色です。一方、見込はベージュです。こちらも綺麗な色調です。胴をしめて変化を出していますね、控えめな意匠性を感じさせます。薄すぎず厚すぎず、どっしりとした風格ある姿で、ほれぼれしました。こうした思い、以前には感じなかったのですが...、は周りに展示されている碗との比較で起こってくるものなのですね...。

 

道入「鵺」も素晴らしい。腰から胴は幾分丸みをつけた大変素直な形状です。見込には少し起伏をつけていますね。薄作、大ぶりなのでたっぷりお茶が入りそうです。名の由来からして黒い模様に注意が行きがちです...私も以前拝見した時はそうでした。ところがよくよく見ると”複雑な赤色の色調”という記述がある通り、魅力たっぷりの気品ある釉色なのですね...感銘。

 

光悦「雨雲」(三井記念美術館所蔵)は2回目の鑑賞となりました。隣に「時雨」(名古屋市博物館蔵、北三井家旧蔵)があると、この2碗は同じ意図で作成されたものであることが一目瞭然です。口縁の切り方、釉景色、腰から胴・口部に至る独特の形状、などあまりにも類似しており、まるで双子のように感じます。「村雲」も写真から推測すると同じ仲間なのですね。とても勉強になりました。

 

今回は他に仁清「色絵鱗波文茶碗」、国宝 油滴天目、国宝「卯花墻」、釘伊羅保茶碗「秋の山」、錐呉器茶碗「山井」などが披露されました。唐物、高麗物、和物の茶碗の一級品を並べて鑑賞すると、各々の素晴らしさが良く分かります。天目茶碗は均整のとれた形状と類稀な釉景色で、見て楽しむ美術品のように感じます。一方、高麗茶碗や和物茶碗は、これで実際にお茶をいただきたくなります...さぞや美味しいのでしょうね...。

 

今回の展示を拝見して"楽茶碗の立ち位置"が確認でき、おぼろげながら利休禅師の思いの一端に触れられたような感じが致しました。

「茶碗の中の宇宙 楽家一子相伝の芸術」

東京国立近代美術館(2017年3月14日~5月21日)で楽家歴代の作品をいっぱい見てきましたよー。大変楽しみにしていましたから、鑑賞にも熱が入りました。十五代(当代)吉左衞門作が圧倒的に多かったのですが、次代惣吉さんのものもありましたし、初代長次郎が13碗、田中宗慶が2碗、二代常慶4碗、三代道入が9碗、本阿弥光悦が6碗と充実しており、四代から十四代は1碗~7碗の展示でした。

 

普段なかなかお目にかかれない長次郎、道入、光悦の茶碗を、これだけまとまって鑑賞できる展示会はめったにないと思います。虚飾を排した長次郎、楽家歴代一の名工と誉れが高い道入、稀代の芸術家の光悦、見ごたえがありました。展示された作品は選ばれるだけの理由があるのでしょう...その点ではバイアスがないとはいえないかもしれません...。

 

創始者長次郎の作品から出発して、これを自分独自の世界へ発展させるという時に、道入と光悦は大きな分岐点になる存在のように思われます。道入流にするか、光悦流にするか、勿論長次郎への回帰もあるでしょうが...。道入の茶碗は色々新しい工夫が加えられていますが、お茶を実際に点てて飲むための器である、という基本姿勢が守られているように思われます。一方、光悦の方は感性の赴くままに作陶したように思われ、飲みやすさなどは意に介さなかった可能性も推測されます...(間違っていたらごめんなさい)。

 

見て触って楽しむ、飾って楽しむ、実用品として使用する、色々な観点からの見方があると思います。楽歴代の作品はどれも工夫を凝らした大変すばらしいものですが、実際にお茶を点てて飲むというという庶民派の立場からみた私の印象は、「道入最高!」でした。光悦が認めた道入ですから、技も頭脳も人間性も卓越した人だったのでしょうね...作品を見ていてそんな気が致しました。

参考図書

林屋晴三 監修:樂茶碗の四〇〇年・伝統と創造 樂美術館 1998年6月29日

赤沼多佳 執筆・編集:日本の美術第399号 楽(長次郎と楽代々) 至文堂 1999年8月15日発行

樂吉左衛門 著: 樂焼創成 樂ってなんだろう 淡交社 平成21年1月13日 9版

里文出版編:必携 茶の湯やきものハンドブック 株式会社 里文出版 平成22年8月28日

樂吉左衛門 樂篤人 著: 定本 樂歴代    淡交社 平成25年4月8日初版

サントリー美術館 編集・発行:天才陶工 仁阿弥道八 2014年12月20日発行

東京国立博物館、NHK、NHKプロモーション、東京新聞 編集: 本阿弥光悦の大宇宙

             NHK、NHKプロモーション、東京新聞 2024年1月16日発行

楽焼のあゆみ

楽焼は茶の湯のために始まり、その技法の特徴は轆轤を使わず手捏ね(てづくね)という手法で胎を造り箆で削り出してゆくという特殊なもので、小規模な窯で炭を燃料として焼き上げる点にあります。京都楽家が本家本元で、玉水焼、大樋焼などの脇窯があります。赤楽茶碗は赤土に鉛釉を掛け1000度前後で焼き上げ、黒楽茶碗は赤土に黒釉を掛け1200度以上で焼成して引き出す(美濃の「引き出し黒」と同様の技法)ものです。

 

千利休(1522-1591)が創意した茶碗を楽家の初代長次郎(~1589)が焼造したことに始まるとされております。楽家の始祖は「飴也(あめや)」「比丘尼」とされており、飴也についての詳細は不明なようですが「元祖が唐人」との記載があり、比丘尼(日本人)は妻です。その子供が長次郎で、長次郎の時代に三彩釉を用いた作品があり、初期の楽家が中国明時代の華南三彩の技法を保持していたことから、飴也の出身地は中国南部辺りではないかとの推測があります。

 

利休は天正2年(1574)頃から織田信長の茶堂を務め、天正10年(1582)頃から豊臣秀吉の茶堂となりました。利休の遺構とされる「待庵」は天正10年頃に造られたと推測されており、長次郎の茶碗が誕生したのも同じ頃といわれています。一方、利休が楽茶碗を初めて使用した年代については1580~1586年と様々な憶測がありますが、「松屋会記」に記述された天正14(1586)年10月13日の茶会に使用された「宗易形ノ茶ワン」が最も可能性が高いようです。この茶会記を境にして、それまで主流であった唐物茶碗が急減し、高麗茶碗と瀬戸茶碗が頻繁に使われるようになり、長次郎の今焼茶碗も登場します。天正15年には唐物茶碗はほとんど見られなくなりました。

 

楽家2代は吉左衞門常慶(~1635)、その兄弟が庄左衞門宗味(~1618)、両者の父親が田中宗慶(1595年に60歳)で長次郎の妻(宗味の娘)の祖父です。長次郎・宗慶・常慶・宗味は一緒に工房を構えておりました。利休の死、豊臣から徳川への政権移行があり、本阿弥光悦の取りなしで常慶は徳川家に出入りを許され、秀忠から「樂」の字を戴き印とし、以降楽家当代は常慶の名前である吉左衞門を継ぐことになりました。

 

本阿弥光悦(1558~1637)が作陶を始めたのは1615年鷹ケ峰の地を拝領してからと考えられています。光悦の作陶は楽家の助けを受けて行われましたが、楽家は2代常慶、その長男3代道入(1599~1656)の時代でした。光悦の茶碗のほとんどは楽家で焼かれましたが、常慶の釉と考えられるもの(国宝「不二山」など)と道入の釉と考えられるもの(「くい違」など)があります。

 

4代一入(1640~1696)は道入の長男、5代宗入(1664~1716)は雁金屋三右衛門の子供で、一入の養子として楽家に入り、後に一入の娘を妻に迎えました。雁金屋三右衛門は尾形光琳・乾山兄弟の親である尾形宗謙の弟で、宗入は尾形光琳(1658~1716)・乾山(1663~1743)兄弟の従弟になります。また宗入の曾祖母は本阿弥光悦の姉で、本阿弥家とも血縁関係があります。6代左入(1685~1739)は宗入の婿養子で、大和屋嘉兵衛の次男です。7代長入(1714~1770)は左入の長男、8代得入(1745~1798)は長入の長男、9代了入(1756~1834)は長入の次男、10代旦入(1795~1854)は了入の次男、11代慶入(1817~1902)は旦入の養子として楽家に入り旦入の娘を妻としました。12代弘入(1857~1932)は慶入の長男、13代惺入(1887~1944)は弘入の長男、14代覚入(1918~1980)は惺入の長男、15代直入(1949~)は覚入の長男、そして当代の16代吉左衞門(1981~)は直入の長男です。

 

以上のように楽家は長次郎の血脈ではなく、田中宗慶の直系になります。楽家は織豊時代には「田中」姓を名乗り、5代宗入、6代左入の代になって「樂宗入」「樂左入」と「樂」を正式に名字にしておりますが、左入の書付には「田中左入」と書かれたものもあるようです。

 

玉水焼は一入の庶子一元(1662~1722)が起こした窯で、一元は宗入とともに一入の元で作陶に励み、宗入が吉左衞門を襲名することになったため母の実家に戻って楽焼窯を開窯し、以降3代まで血脈が続き、8代で廃窯しました。大樋焼初代は土師長左衛門(1631~1712)で、一入に楽焼を学び(最高弟)、裏千家4代仙叟宗室が加賀前田家に茶堂として仕えるにあたり同道して加賀に赴き、金沢の大樋村に開窯しました。現在も代を重ねて存続しております。

茶道事始め

大徳寺茶会記

茶道に興味を覚えた私が是非訪れてみたかったのが大徳寺です。ここで初心者の私にも気軽に参加できる茶会があるということで、早速申し込むことにしました。大変人気のあるイベントのようで、希望の時間はすでに満席でした。しかしキャンセルが出て、運よく参加できました。

茶会の当日は幸い大変良いお天気でした。千利休の木像で有名な三門を右手に見て進みます。予定の集合時間より1時間早めに到着しましたので、公開塔頭の「大仙院」を見学。


菩提樹(左写真)と沙羅双樹(右写真)とが並んで植えられています。寺院の内部は写真撮影が禁止されていますので、見たものを脳裏に焼き付けるしかありません。ネットに載っている画像をコピーして持参すると、後々便利かもしれません...。


石庭や本堂をガイドさんの説明を聞きながら見学。開山古岳和尚の作庭した枯山水の名園として知られています。また本堂は国宝に指定されていますね。案内の途中で面白い軸(販売中)を紹介されましたが、今日は素通りしましょう。

茶会は「芳春院」の茶室で行われます。本堂(方丈)に集合して前庭を眺めながら時間を待ちました。この広々とした石庭は「花岸庭」という名前が付けられているのですね。


和服の方もおられます。洋服の私は持参した白いソックスに履き替えて準備完了。そうそう、扇子、懐紙、菓子切り、...。

今回の大寄せの茶会は芳春院秋吉則州住職と柳生新陰流15代末裔柳生俊彦氏がナビゲート、今日庵文庫長筒井紘一氏が亭主です。

 

点心席が設けられており、初めに別室にて懐石料理をいただきました。料理人は木乃婦3代目若主人高橋拓児氏による精進料理です。さすがに京都老舗のお料理ですね。視覚的にも味覚的にも十分満足できる絶品です。また筒井氏のトークは知性・機知にあふれ、弁舌爽やかで耳に心地よく響きました。

今度は広間へ移ってお菓子をいただきました。近江の名店叶匠寿庵の栗きんとんは上品で、とても美味しいものでした。苦手な正座も何とか無事に終了...。

 

次に迷雲亭に移動して「お薄」をいただきます。まず掛物と釜を拝見しましたが、その方面には知識・見る目ともにゼロに近いものですから、とんと記憶に残りません(実は茶碗以外はほぼ同様の状態です...最後に拝見で回された茶杓も茶入も海馬の回路には入りませんでした...)。

 

さて主客に古唐津、次客に左入黒楽平茶碗でお薄が振舞われました。その他大勢の私はあまり上等とは言えないお茶碗での喫茶となりました。そのためでしょうか、お茶の味わいも今一つのような...(ごめんなさい)。左入の黒楽は以前シッカリ拝見したことがあり、高台の作行・かせた釉薬の感じが瓜二つで何となく懐かしい感じがしました。私も左入でお薄をいただきたかったなー...。

 

迷雲亭を後にして向かった先は呑湖閣。1階の内部を見学し、2階に上がってから四方をパチリと撮影。

 

次いで芳春院からほど近い聚光院へ移動し、千利休と三千家のお墓を見学いたしました。思ったよりも質素なもので、意外な感じがしたというのが本心です。侘茶を志した利休ですから、こうした墓石が相応しいのでしょうね。

 

私の大徳寺での茶会はこうして幕を閉じました。無謀にも最初から茶道の本場に切り込んだわけです。初心者の私にはもったいない経験をさせていただき、今は感謝の気持ちでいっぱいです。それにしても他の参会者の方たちにご迷惑をおかけしなかったかしら...。

茶道と禅

茶道の大成者である千利休は、生涯を通して大徳寺に参禅し修行を続けたとされています。大徳寺は洛北にある臨済宗の禅宗寺院で、元は南浦紹妙(なんぽじょうみょう)(大応国師)の法嗣である宗峰妙超(大燈国師)が叔父の武将・赤松則村から与えられた草庵(大徳庵)で、花園法皇が宗峰妙超に帰依したところから草庵を大徳寺として祈願寺になりました。大徳寺は武野紹鷗・千利休・小堀遠州をはじめ多くの茶人と関係があり、有名な茶室も多く残っています。

 

茶道の流派である裏千家・表千家・武者小路千家の三千家は利休直系の家元ですね。江戸千家流祖の川上不白は表千家七代如心斎の弟子、薮内流の流祖薮内剣仲は武野紹鷗門下で利休とは兄弟弟子、遠州流の小堀遠州は利休の弟子・古田織部の弟子、石州流流祖の片桐石州は利休の長男・千道安の流れを汲む桑山宗仙の弟子、宗徧流の流祖山田宗徧は千家三代千宗旦の弟子、その他にも流派は多数あるようです。

 

禅宗は釈迦の一番弟子の迦葉(かしょう)が開祖とされています。その継承者の第28祖菩提達磨が六世紀前半に中国北部を訪れ、中国における禅宗の開祖になりました。その六代目慧能は中国南部に普及した南方禅の創始者で、この南方禅は現在知られている最初の禅の教えとされています。

 

唐の時代は団茶(固形茶)が主流でした。蒸したお茶の葉を臼でついて団子状にし、米・生姜・香辛料などと一緒に煮たのです。宋の時代になると粉茶(抹茶)が流行するようになりました。南方禅の一派では、僧侶たちが菩提達磨の像のl前に集まって「一つの鉢に入れたお茶を皆で飲む」というお茶の儀式を作り、これが現在の茶道の原点になりました。また仏教徒は長時間瞑想する際に、眠気を防ぐために茶を活用したようです。

 

日本に禅宗を初めて伝えた栄西(ようさい)(臨済宗黄龍派)は、南方禅を学びに宋に渡り、1191年に茶の種を持ち帰りました。栄西の記した「喫茶養生記」に「抹茶法」が紹介されています。「喫茶養生記」はその当時の最先端の医術の紹介であり、入宋して自ら修めた医術による医療革命を宣言している書でもあるのですね。蛇足ですが、この本にはお茶とともに桑の木の効用も詳述されており、興味深く拝読いたしました。

 

ところで鎌倉時代から室町時代の戦乱の世に勢力を伸ばした武士は、禅宗を学び、茶を飲む習慣を大切にしました。15世紀になると将軍足利義政の保護のもとで茶の湯が確立し、非宗教的な営みとなりました。室町時代中期に奈良の僧侶である村田珠光は草庵式茶室を考案し、16世紀に堺の町衆出身の武野紹鷗は侘茶の精神を導入、そして同じく町衆出身の千利休は村田珠光の弟子である北向道陳と武野紹鷗の教えを受けて茶道を大成しました。

 

日本の禅宗は栄西(前述)や、応・燈・関の大応国師-大燈国師(前述)-関山慧玄(楊岐派)らの臨済宗、道元が伝えた曹洞宗、臨済宗から分かれた黄檗宗があります。茶道が臨済宗と関連が深いことは、上述した歴史から明らかです。茶道家元は代々臨済宗本山に参禅し、得度して僧侶の資格を得ています。黄檗宗は中国臨済宗の僧・隠元に始まり、その教義・修行・儀礼は日本臨済宗と異ならないとされています。道元は天台宗の延暦寺と三井寺、次いで臨済宗の建仁寺と遍歴し、その後宋へ渡りましたから、臨済宗とも関連があるのですね。

 

茶道は「茶禅一味」、禅の境地で行うものとされています。露地や茶室、茶室内の掛物・置物・お道具類一切、作法も含めて総てに通じる根本なのですね。「一切茶事にて行い用うる所、禅道に異ならず」、虚飾を排し、少しの不足もなく、無駄もなく、一心に実践する.....「すなわち、迷悟あり、修行あり」の精神でしょう。

七堂伽藍の秋景色:永平寺

禅宗のもう一方の雄である曹洞宗大本山永平寺の秋景色です。道元禅師が1244年に開かれた山里の大伽藍は壮大です。主要な伽藍の法堂はっとう、仏殿、僧堂、庫院くいん、山門、東司とうす、浴室を七堂伽藍と呼ぶようです。休日に訪問したため、最初に入る吉祥閣は参拝客であふれておりました。

 

伽藍を回る前に先ず一日三回行われている「日帰り参禅体験」に申し込みました。事務手続きを行う、あるいは行きかう修行僧の頭は綺麗に剃られて真っ青です。それから巡回の矢印に従ってユックリと伽藍を巡りました。

 

塵一つない通路を歩いていると修行僧の作務の姿が脳裏に浮かびました。また「永平寺は非常に雪の深いところです。そのため毎年多くの屋根瓦を取り替えなければなりません。」というパンフレットに込められた思いも伝わります。

 

さあ座禅に行きましょう。靴下を履いたままではいけません。指導僧の案内に従って座蒲に座り脚を組みます。結跏趺坐けっかふざ、半跏趺坐はんかふざ、その他、となります。その後手を組み(法界定印ほうかいじょういん)、欠気一息し、左右揺振して身体の中心位置を確認し、止静鐘しじょうしょうを合図に座禅を開始します。

 

警策きょうさくで肩を打ってほしい場合は合掌して合図します。私の場合は、その前に警策で背中をつつかれましたから、姿勢がピシッとしていなかったようです。約15~20分間でしたが、畳の上に直に座るのは訓練していないと結構きついです...。

 

永平寺境内にはお抹茶を頂ける場所はありませんでした。これだけ多数の参拝客が訪れるわけですから、たとえ喫茶の習慣があっても境内での提供は無理そうです...。座禅修行の道場として建立されたことを考えると、その方が一貫しているように思えます。

 

https://daihonzan-eiheiji.com

茶聖の故郷・堺①

千利休(1522~1591)が生まれ育った堺の街は、茶人としての基礎を築いた街でもありますね。茶道大成のためには生涯勉強を続けたのでしょうが、根本的事項の多くは入門して数年のうちに身に着けたのではないでしょうか。その堺の街を知りたくなり、遥々訪ねてまいりました。

 

向かった先は「さかい利晶の杜:堺市立歴史文化にぎわいプラザ」です。ここにある「千利休茶の湯館」「茶室 さかい待庵 無一庵」と向かいにある「千利休屋敷跡」の見学が主な目的です。快晴、真夏日で、JR堺市駅から宿院行バスに乗り、降りた目の前が目的地でした。

 

まず千利休屋敷跡を見学致しました(写真1)。ビルに囲まれた屋敷跡は入場フリーです。入るとオジサンが歩み寄ってきて話し始めました。ボランティアさんなのですね。ここは裏千家の所有地で、元は大坂夏の陣で焼き尽くされた堺の街に商人加賀田太郎兵衛が1845年に茶室などを建てた場所ということです。一種のモニュメントなのですね。椿の炭を底に沈めたという椿の井戸、井戸を覆う大徳寺山門の古材を用いた井戸屋形のお話もありました(写真2)。

 

お昼時ですから隣接する和食レストランで昼食に致しましょう。このお店には「南方録」という文献を基に千利休が茶会で振る舞った茶懐石を現代風に再現した「利晶」というメニューがあります。器は総て織部を使用しています(写真3,4)。とても美味しく頂きました。

 

さて予約しておきました「さかい利晶の杜(写真5)」ガイドツアーの時間になりました。待合室におりますと、ここでもボランティアのオジサンが近寄ってきて堺の街の説明をして下さいました。堺は西側を海、他の三方をお濠で囲まれた環濠都市(写真6)であることを大きな陶板フロアマップを用いてお話しされ、摂津和泉の境に発展したことから「堺」と命名されたことなどを色々説明して下さいました。

 

ガイドツアーは、初めに若い女性ガイドさんが「茶室 さかい待庵 無一庵」を案内して下さいました。待庵に続く手前の廊下の壁に6枚のパネルが掲示されており、この説明から始まりました(写真7,8)。待庵は利休が山崎城に秀吉のために建てた二畳の茶室で、現在は臨済宗の寺院である妙喜庵に移築されており、現存する最古の茶室として国宝に指定されています。これを復元したものがさかい待庵です。山崎城は秀吉が明智光秀と戦った山崎の戦い(1982年7月2日)の後、大阪城を築城するまで本拠地にしていた山城です。天下統一前の緊迫した時節を反映しているのでしょう。

 

さかい待庵の内部はパネルの写真(写真7)が一番雰囲気を良く映していると思います。頂いたパンフレットには室床(むろどこ)・苆(すさ)など聞きなれない専門用語が出てきます。後でネットで調べて漸く理解致しました。壁に貼られた裏返しの暦や案外大きい躙口が印象的でした。

 

次いで無一庵の見学に移りました。無一庵は豊臣秀吉が京都北野天満宮境内で催した北野大茶湯(1587年11月1日)で、利休が構えた四畳半の茶室を復元したものです。こちらは写真撮影OKで、何枚か写真を撮りました(写真9)。茶室は禅宗の「方丈(一丈四方)」から出た四畳半が標準で(これより狭い小間、広い広間を区別)、無一庵も特に違和感のない広さでした。

 

茶禅一味ですから、茶人は禅の実践者でもあります。茶会を開く茶室は、茶人が日ごろ修養してきた総てを披露して客人を歓待する場、あるいは道場ともいえるでしょうか。茶室は利休の生きた戦国の世と現在とでは違って当然でしょうが、和やかな茶会においても客人の鋭い観察眼と亭主との火花を散らす一期一会は脈々と受け継がれているのでしょう。

 

ここでガイドさんは交代し、千利休茶の湯館の見学になりました。展示による堺の街や堺と関連した人物の紹介が充実しており、これを眺めながら説明をお聞きする事でとても勉強になりました(写真10,11)。利休の茶会の料理・菓子を再現した興味深い展示もありましたョ(写真12)。

 

最後に立礼茶席南海菴でお菓子とお抹茶を頂戴致しました(ここも予約を入れておきました)。三千家が分担されているようですが、当日は表千家の担当でした。流麗なお点前で美味しいお抹茶を点てて頂き、旅の疲れが一気に吹き飛びました。

茶聖の故郷・堺②

鎌倉時代(12世紀末~1333年)の前半では、喫茶は禅に裏打ちされた薬用でした。中国禅院での生活規範を定めた禅苑清規ゼンエンシンギに茶礼があり、日本からの留学僧(栄西・道元・大応国師などもそうです)がこれを日本に定着させたと推測されています。室町時代(1336/1338~1573)になると公家・武家・寺社には会合に用いられる会所が発達し、唐物を使ってお茶を飲んだり和歌・連歌などの芸能の場として使われました。この時代に書かれた喫茶往来には後の茶事の原形が既にみられます。

 

室町幕府の将軍邸の会所は同朋衆が飾り付けをしました。同朋衆は剃髪・帯刀で武家・公家に仕える半僧半俗で、なかには連歌や作庭や立花などに優れた者もおり、茶の湯も仕事の一つでした。有名な君台観左右帳記は同朋衆の能阿弥(相阿弥の祖父: 1397~1471)/相阿弥(1472~1525)の編とされています。千利休の祖父田中千阿弥は室町幕府8代将軍足利義政の同朋衆で(晩年は堺に隠居)、利休は幼少から茶に触れていたようです。またわび茶の創始者である村田珠光(1423~1502)は京都で能阿弥に茶を学びました。

 

喫茶の風習は徐々に普及して一服一銭と呼ばれる門前の茶売りを出現させ、名所や芝居小屋にも茶屋が設けられました。武野紹鷗(1502~1555)は堺の商人で、若いときに京都で和歌・茶の湯を学び、後に堺に帰って豪商達に茶の湯を伝授しました。

 

堺は奈良の外港で、早くから国内の物流の中継地として発展し、15世紀に遣明船の発着港となって中国や東南アジアなどとの交易により国際貿易港として繁栄します。ここには様々な人や物が集まり、経済が活性化し、茶の湯・連歌・能楽などの文化が発展しました。また鉄砲はポルトガルから種子島へ伝来しましたが、堺の商人はいち早く島を訪れてその製法を習得し、瞬く間に日本一の鉄砲生産地になりました。

 

このように莫大な富が蓄えられていた堺では、会合衆と呼ばれる裕福な有力商人達は大名に支配されない自治都市を築いておりました。会合衆は名物茶器を集めたり、邸宅の奥に草庵風茶室を作って茶の湯を楽しんだようです(市中の山居)。会合衆は36人おり、その中でも特に有力だったのは倉庫業を生業とする10人の納屋衆とされているようです。会合衆の茶人には能阿弥の孫弟子で利休を武野紹鷗に推薦して弟子入りさせた北向道陳(1504~1562)、天王寺屋会記で有名な津田宗及(?~1591)、織田信長の天下統一を側面から支えた今井宗久(1520~1593)、利休の高弟で「山上宗二記」で名高い山上宗二(1544~1590)などがおり、千利休も会合衆の一員になっていたようです。

 

この頃、大徳寺の一休宗純(1394~1481)・養叟宗頤ヨウソウソウイらが新興都市堺に禅宗を布教し、後に古嶽宗亘コガクソウコウは南宗庵を開きました。これを嗣いだ大林宗套ダイリンソウトウ(1480~1568)は、和泉・河内の代官である三好長慶(1522~1564)が父の菩提を弔うために寺観を一新して創建した南宗寺の開山となり、武野紹鷗、今井宗久、千利休ら多くの茶人が帰依します。その結果、茶の湯と禅、堺と大徳寺が強く結びつくことになりました。

 

堺のまちは茶の湯の歴史を知る上で重要なところなのですね。今回は半日の訪問でしたから、ほんのちょっぴり堺の雰囲気を味わっただけでした。それでも後から色々勉強するキッカケになりましたので、良しとしたものでしょう。

参考図書

飯塚関外 著:禅のこころ 株式会社 講談社 昭和52年10月28日第9刷

千 宗室 著:茶のすがた PHP研究所 昭和53年11月25日第四刷

森本和夫 著:正法眼蔵入門 朝日新聞社 1985年10月20日第1刷

Books Esoterica 3  禅の本 株式会社 学習研究社 1993年4月15日第4刷

久木直海 著:正法眼蔵入門 株式会社同友館 2001年1月31日第2刷

花岡光男 著:道元 明明百草の夢-現代人のための正法眼蔵入門- 株式会社リフレ出版

                      2007年4月19日初版

財団法人今日庵 茶道資料館 監修:茶道文化検定公式テキスト 1級・2級用 

         茶の湯をまなぶ本 株式会社淡交社 平成23年7月6日 四版発行

北見宗幸 監修:DVDではじめる茶道入門 株式会社ナツメ社 2012年10月30日発行

筒井紘一 監修:洋泉社MOOK 入門 茶の湯 株式会社洋泉社 2013年1月17日発行

岡倉天心 著、夏川賀央 訳:茶の本 致知出版社 平成26年4月15日第1刷

山折哲雄 監修:あなたの知らない栄西と臨済宗 株式会社洋泉社 2014年4月24日初版

藤原東演 著:新版 臨済宗の常識 株式会社朱鷺書房 2016年10月31日第1版第1刷

古田紹欽 著:栄西 喫茶養生記 株式会社講談社 2017年6月12日第11刷