楽焼・茶道事始め

コーヒーにはコーヒーカップ、紅茶にはテーカップ、ワインにはワイングラス、日本酒にはぐい吞み・猪口等々、多様な飲物には各々に適する器が考案されています。お抹茶をいただくときには抹茶碗になりますが、その歴史を知ることは日本史の一面を学習することにもなり、これがなかなか奥深いのですね。

 

現在でもお抹茶をいただける機会は少なくありません。本格的な茶会はどうもという方でも、気楽な大寄せの茶会や観光地での一服などは皆さん経験されているのではないでしょうか。お抹茶を点てるには色々の流派がありますが、そのほぼ総ては千利休(1522~1591)の流れを汲んでいると思われます。

 

東北地方を旅した時に、お昼時ある海沿いの小さな町のお寿司屋さんに入りました。定番の握り寿司を頂き、デザートになってフルーツとお抹茶が出されたのには少々驚きました。あまり経験したことがなかったのでお聞きすると、ご主人は千家の一派でお茶を習っているということでした。

 

抹茶碗は初め唐物カラモノが主流でしたが、その後高麗コウライ茶碗が見立てられるようになりました。やがて千利休が長次郎(~1589)に楽茶碗を焼かせ、また他の国焼茶碗も次第に焼かれるようになりました。茶聖・千利休の肝入りで作られた楽茶碗ですから、お抹茶を頂くには理想の器に違いありません。

 

楽茶碗のルーツは明時代の素(華南)三彩で、その陶工であった長次郎に千利休が作らせたのが楽茶碗です。楽茶碗は手捏ねテヅクネ・箆削りヘラケズリで成形し、黒茶碗は1碗ずつ黒楽窯、赤茶碗は3~4碗ずつ赤楽窯に入れて備長炭で焼成します。この過程は15代吉左衞門(直入)のテレビ番組で詳細に拝見致しました。

 

楽茶碗に対峙するとき、この一碗が世に出るまでに費やされた夥しいエネルギーを思い、また歴代が込めた悟りに共感して手にすることになります。楽のタグを背負って世に出てくるお茶碗とは、僭越ながらそういうものなのでしょう。

 

亡き祖母が茶道教室を開いていたこともあり、小さいときからお抹茶は身近な存在でした。従姉が茶道師範で教室を開いており、遠方ですが一度だけお宅を訪問したことがあります。和服姿で出迎えてくれました。白い靴下に履き替えてお茶室に入り、薄茶席の茶事でおもてなしを受けました。畳に正座は久しぶりで、途中から正座椅子になりました。

 

私も以前断続的に茶道を学ぶ機会がありました。時々お茶を点てて楽しんでおります。またお抹茶を頂くことは好きでしたから、気軽なお茶会に出席したりお道具を勉強するうちに、どういうわけかお茶碗に惹かれるようになりました。

 

素人の私が自分流にお茶の世界を楽しむ、そんなブログです。専門家からはお叱りを受ける内容もあるかもしれませんが、どうぞご容赦ください。