楽焼に触れてみました

楽家の表通りにて
楽家の表通りにて

楽美術館で学習

先日京都へ楽焼を見に出かけました。楽美術館の見学と、無謀にも適当なものがあれば購入したいと思って出かけたのです。私は楽焼を真剣に見たことも実際に触ったこともありません。そこで、まずは楽美術館で基本的な事項の学習から始めようと思いました(2014/3/15)。

 

地理に不案内のためタクシーで目的地へ...。京都の街中とはいっても、とても静寂な環境です。私の住んでいる町より静か...。美術館は想像していたよりこじんまりした印象。最初に歴代の作品が陳列された2階建ての展示室を回りました。ガラス越しながら、本で予習しておいた赤楽、黒楽などをじっくり見学することができました。

 

ついで、事前に申し込んでおいた楽茶碗を手にできる鑑賞会に参加しました。楽茶碗二碗を実際に手にしながら解説員の説明を聞くものです。参加者は15名くらいで、男性3名、女性12名でした。別棟があるんですね。草履に履き替えてぞろぞろと露地を移動。初めに躙り口から茶室(「小間」)に入って、楽家の茶室の雰囲気を味わいました。狭いのですが、全員入ってもぶつかり合うほどではありません。詫び寂びの精神が何となくわかるような...。

 

そのあと隣の「広間」に移って鑑賞会が行われました。一碗目は6代左入の赤楽茶碗、銘桃里でした。やさしい色調が印象的...。二碗目は14代覚入の黒楽茶碗(平茶碗)です。年代が新しいのは見て直ぐにわかりました。実物を手にしないと目があがらないとの思いがあって参加しましたが、手にする時間が短いのと元々の知識や経験が乏しいのとで、終わった後に記憶として残ったものは窯傷の金継ぎと、........。やはり場数を踏まないとだめですね。それと、最も手にとってみたかった利休形の黒楽茶碗にはお目にかかれませんでした。残念。

有名な本阿弥光悦筆とされる暖簾...植栽の陰になりますが見えました
有名な本阿弥光悦筆とされる暖簾...植栽の陰になりますが見えました

祇園の道具屋さんへ

何となく己の鑑賞眼のなさを自覚させられながら向かった先は、自他ともに認める日本一の楽茶碗専門の道具屋さんでした。これも予め予習をしておいて、迷わないで訪問することができました。一見の客なのでやや心配でしたが、店主自らが丁寧に説明して下さいました。

 

大物相手の商売が多いのは、話の節々から伝わります。当方の懐具合などもお見通しなのでしょうが、そんな態度は微塵も感じさせません。その接客態度たるや、さすが祇園界隈!と感嘆いたしました。そこで得られた体験は、私の今回の京都旅行...いやいや、今までの陶芸を巡る旅の中でも...一番の宝になりました。

 

まず最初に箱から出して頂いた6代左入の黒楽茶碗は、持ってみると手に吸い付くように馴染み、品格もある!「あー、これが楽茶碗なんだなー」と心底思いました。陳列ケースの数碗も見せていただきながら話を伺っているうちに、何としたことか3種類の名碗を見せて頂けたのは今から思うと奇跡のような感じです。

 

まず4代一入の朱釉の黒楽です。見た中では幾分小ぶりに思えましたが、美しい!! 黒に深みのある朱色が調和して実に気品があります。今回いろいろ見た中で最も美しいと思いました。こんな茶碗でお茶がいただけたら、どんなにか美味しいだろう....。つぎが5代宗入のかせ釉の黒茶碗。黒茶碗というより銀茶碗といった趣。初めて見る色調で、ただただ唖然とするのみ。

 

最後に、何と何と、初代長次郎の黒楽茶碗! 確かに本に載っていたあのくすんだ硯のような色調でした。手に取ることを許されたのは得難い経験ですし、今後二度とないように思います。見た目は地味で、一見魅力的には思えません。文化財として美術館に陳列しておくべきもののように思えました。しかし、よくよく考えてみると実際にお茶をたてた時に抹茶の緑が見込の内でどのように映えるのか、両手で抱えてお茶を口に含んでみた時に何を感じるか、は極めて僅かの幸運な人しか経験できない世界ですよね。長次郎の黒茶碗を恐る恐る手にし、余すところなく記憶に留めようと穴が開くほど拝見.......。しかし残念ながら自分の実力では「長次郎」が見えてこないのです。相手の格があまりにも上過ぎるため、私の方が委縮してしまったという面もあるかもしれません。長次郎と相対するには、今しばらく自分を磨く時間が必要のようです。

 

最後に貴重な経験をさせていただいたお礼を丁重に述べてお店を出るときに、店主は深々と頭を垂れて「ありがとうございました」と言われました。今回の京都の旅は日本文化の奥深い一面を垣間見ることができた、とても貴重な旅でした。

 

それにしてもなんという個性豊かな茶碗でしょう!樂家では製法を次代に教えないのが習わしだということで、歴代は考え抜いて、工夫して、何度となく失敗して、最後に独自の作品を作り上げたことでしょう。目上がりしたのか、欲しいと思えるものは高級独車の新車をも凌ぐ価格帯(長次郎はさらに一桁ちがいます!)のため、残念ながら購入には至りませんでした。これからコツコツ貯金して、将来一碗所有したいという思いをつのらせながら京都を後に致しました。

祇園白川のせせらぎ
祇園白川のせせらぎ

マイ・フェイバリト

内箱蓋裏「長入作 黒茶碗 楽吉左衞門 (了入中印)

外箱箱書 直入極書付

         (口径12cm・高さ8.6cm・高台径5cm・重量319g)

 

楽家七代長入(1714~1770)の在印黒茶碗で、長入の次男である楽家九代了入(1756~1834)極箱に入り、十五代直入(1949~)極箱が外箱になっています。長入のお茶碗は大振りの厚作という記載を見かけますが、箆を大胆に使って内外を削ぎ落としたためでしょうか、手持ちは思いのほか軽やかで見込みもたっぷりしています。

 

形状は素直な半筒形で、口造りは少し内に抱え緩やかな起伏が付けられています。高台脇から腰にかけて全く逡巡のない浅い横箆4本がキッパリ入り、胴には変化に富んだ箆削りが全面に回っていて手持ちの良さを引き出しています。また茶溜りが右渦の巴に削り出されているのは長入の特徴のようです。

 

口縁の五つの起伏を「五岳」とよび、長入から一つの型になったとされ、中国の五霊山(東岳泰山、南岳衡山、西岳崋山、北岳恒山、中岳嵩山)になぞらえての名称ということです。中国で「五山」といえば南宋時代の臨済宗の最高の寺格を示す五つの官寺を指し、京都にも五山はありますね。一方「五山送り火」については、長入の時代にその名称があったかどうか分かりません。何れにしても楽茶碗の「五岳」は祈り...?。

 

総釉掛けの高台は低く、ほぼ正円形の整った形状で、五徳目も三個綺麗に入っており、真ん中の樂印も丁寧に刻印されています。この高台からは真面目で几帳面な性格のように感じられますが如何だったのでしょう...。

 

釉調が出色でとても驚きました。基本は長入の特徴とされる艶やかな黒釉ですが、高台・胴・茶溜りには一入の特徴とされる朱釉が箆削りの縁に所々薄っすらと現れており、見込みの表面はスベスベして滑らかですが景色は宗入・左入のようにカセているのです。歴代の釉技を昇華したような強烈な印象を放っています。

 

同じ作者の楽茶碗でも出来不出来はやはりあるのでしょうね。また歴代の作者の間にも色々な専門家の評価はあるようです...。私見ですが、それぞれの碗には作者の気持ちが凝縮されていると思いますので、自身でそれを素直な目・心で受けとめる、そうした態度で作品を鑑賞するとまた新たに見えてくるものがあるように思います。そうして惚れ込んだお茶碗には当然愛着が湧きますよね。

共箱蓋裏「宗入作 黒茶碗 頭巾 (花押)」啐啄斎宗左 筆

外箱蓋裏「宗入作 黒茶碗 銘 頭巾 啐啄斎箱 左(花押) 」而妙斎宗左 筆

外箱箱書  直入極書付

                          (口径10.3cm・高さ7.9cm・高台径5.0cm・重量374g)

 

楽家五代宗入(1664~1716)の黒茶碗で、表千家八代啐啄斎(1744~1808)により「頭巾」の銘が与えら、外箱は表千家十四代而妙斎(1938~)と楽家十五代直入(1949~)の極書があります。

 

宗入の曾祖母は本阿弥光悦(1558~1637)の姉で、宗入と尾形光琳(1658~1716)・乾山(1663~1743)とは従兄弟関係にあることは有名です。2歳で楽家四代一入(1640~1696)の養子になり、後に一入の娘と添い遂げています。楽家歴代中で最も長次郎に近い茶碗を作ったとの評価もあるようです。

 

胴締めの半筒形で、やや厚作のため手持ちすると重厚感があります。口縁はぽってりして少し内に抱え、緩やかな起伏が付けられています。総釉で無印、畳付に五徳目が3個、一重高台の内に低い兜巾が見られます。高台の内縁底に浅い穴が2個並んで設けられており、何か意味があるのでしょうね。

 

高台から腰にかけての器肌はスベスベして光沢があります。箆を使った作りでしょうが、箆削りの痕跡は分からないくらい滑らかです。胴締めの上部からは艶消し~柚子肌になり、見込みは一転して宗入の特徴とされる「かせ釉」に覆われ、明瞭に削り出された茶溜りの周辺は再び光沢ある釉景色に変化しています。

 

一見地味なようですが、かなり技巧を凝らした作りになっているような印象です。銘の頭巾について、高麗茶碗にも頭巾(一名「紹鷗頭巾」)の銘があるお茶碗があり、大正名器鑑には「形大黒だいこく頭巾に似たるを以て名つく」の記載があります。

 

利休百回忌(元禄3年:1690年)に居合わせたこと、従兄弟の尾形光琳・乾山と同時代に生きたこと、元禄という社会情勢等が宗入の作陶に影響したことは確かなのでしょうね。

共箱蓋裏「ノンカウ 赤茶碗 東雲シノノメ (花押)」啐啄斎宗左 筆

 

                          (口径10.8cm・高さ8.3cm・高台径5.0cm・重量233g)

 

楽家三代道入(吉兵衛、別名ノンコウ)(1599~1656)は二代常慶( ~1635)の長男で、嗣子は四代一入(1640~1696)、また本阿弥光悦(1558~1637)との交流は良く知られています。千家との関連では千家三代宗旦(1578~1658)とほぼ同年代に生きたことになり、表千家江岑宗左コウシンソウサ(1613~1671)、裏千家仙叟宗室センソウソウシツ(1622~1697)、武者小路千家一翁宗守イチオウソウシュ(1593~1675)とも年代が重なります。

 

年代からみてノンコウは実父常慶と一緒に作陶した期間が長く、本阿弥光悦との交流も十分ですが、長男一入とは短期間だったのですね。常慶と光悦とは同年代ですから、両者からの薫陶を受けて道入の作風は形成されていったのでしょう。一方、実生活においてノンコウは貧窮していたと伝えられています。

 

元伯宗旦は10歳ころ大徳寺に預けられ、1594年千家再興が叶ったことから還俗しています。若くして応・燈・関の臨済宗寺院で修行したのですから、清貧で「乞食宗旦」と呼ばれたのも十分理解できます。宗旦の好みの道具を作ったとされるノンコウの生き様には宗旦からの影響もあったのでしょうね。

 

椀形ワンナリの整った形で、薄造り、軽量です。見込みは広く、奥に向かって均一に深く削られています。胴は軽く締めてあり、手持ちは良いですね。口造りは所謂は”蛤端ハマグリバ”です。高台の畳付きは広く、そこに嫌味のない箆削りが入り、中央に渦巻状の兜巾が立って変化に富んだ造りになっています。

 

ノンコウの赤楽は1000度以上の高温度で焼成されていると聞きました。胴から腰にかけて熟柿色の濃い肌合いに僅かに黄色が入り、淡黒色の窯変がみえます。少しざらざらした手触りは砂釉によるものですね。見込みの特に胴の裏側はカセていて、底には筆で描いたような黒い模様があります。このカセた見込みが水を吸うと綺麗な赤色に発色して本当に驚きました。「東雲シノノメ」とはよく命名したものです。

 

こうした変化を見越してノンコウは”赤楽のカセ釉”を作り出したのかもしれません。何しろ稀代の芸術家である光悦が「今の吉兵衛は至て樂の妙手なり 後代吉兵衛が作は重宝すべし」とべた褒めしているくらいですから。