千利休(1522~1591)が生まれ育った堺の街は、茶人としての基礎を築いた街でもありますね。茶道大成のためには生涯勉強を続けたのでしょうが、根本的事項の多くは入門して数年のうちに身に着けたのではないでしょうか。その堺の街を知りたくなり、遥々訪ねてまいりました。
向かった先は「さかい利晶の杜:堺市立歴史文化にぎわいプラザ」です。ここにある「千利休茶の湯館」「茶室 さかい待庵 無一庵」と向かいにある「千利休屋敷跡」の見学が主な目的です。快晴、真夏日で、JR堺市駅から宿院行バスに乗り、降りた目の前が目的地でした。
まず千利休屋敷跡を見学致しました(写真1)。ビルに囲まれた屋敷跡は入場フリーです。入るとオジサンが歩み寄ってきて話し始めました。ボランティアさんなのですね。ここは裏千家の所有地で、元は大坂夏の陣で焼き尽くされた堺の街に商人加賀田太郎兵衛が1845年に茶室などを建てた場所ということです。一種のモニュメントなのですね。椿の炭を底に沈めたという椿の井戸、井戸を覆う大徳寺山門の古材を用いた井戸屋形のお話もありました(写真2)。
お昼時ですから隣接する和食レストランで昼食に致しましょう。このお店には「南方録」という文献を基に千利休が茶会で振る舞った茶懐石を現代風に再現した「利晶」というメニューがあります。器は総て織部を使用しています(写真3,4)。とても美味しく頂きました。
さて予約しておきました「さかい利晶の杜(写真5)」ガイドツアーの時間になりました。待合室におりますと、ここでもボランティアのオジサンが近寄ってきて堺の街の説明をして下さいました。堺は西側を海、他の三方をお濠で囲まれた環濠都市(写真6)であることを大きな陶板フロアマップを用いてお話しされ、摂津・和泉の境に発展したことから「堺」と命名されたことなどを色々説明して下さいました。
ガイドツアーは、初めに若い女性ガイドさんが「茶室 さかい待庵 無一庵」を案内して下さいました。待庵に続く手前の廊下の壁に6枚のパネルが掲示されており、この説明から始まりました(写真7,8)。待庵は利休が山崎城に秀吉のために建てた二畳の茶室で、現在は臨済宗の寺院である妙喜庵に移築されており、現存する最古の茶室として国宝に指定されています。これを復元したものがさかい待庵です。山崎城は秀吉が明智光秀と戦った山崎の戦い(1982年7月2日)の後、大阪城を築城するまで本拠地にしていた山城です。天下統一前の緊迫した時節を反映しているのでしょう。
さかい待庵の内部はパネルの写真(写真7)が一番雰囲気を良く映していると思います。頂いたパンフレットには室床(むろどこ)・苆(すさ)など聞きなれない専門用語が出てきます。後でネットで調べて漸く理解致しました。壁に貼られた裏返しの暦や案外大きい躙口が印象的でした。
次いで無一庵の見学に移りました。無一庵は豊臣秀吉が京都北野天満宮境内で催した北野大茶湯(1587年11月1日)で、利休が構えた四畳半の茶室を復元したものです。こちらは写真撮影OKで、何枚か写真を撮りました(写真9)。茶室は禅宗の「方丈(一丈四方)」から出た四畳半が標準で(これより狭い小間、広い広間を区別)、無一庵も特に違和感のない広さでした。
茶禅一味ですから、茶人は禅の実践者でもあります。茶会を開く茶室は、茶人が日ごろ修養してきた総てを披露して客人を歓待する場、あるいは道場ともいえるでしょうか。茶室は利休の生きた戦国の世と現在とでは違って当然でしょうが、和やかな茶会においても客人の鋭い観察眼と亭主との火花を散らす一期一会は脈々と受け継がれているのでしょう。
ここでガイドさんは交代し、千利休茶の湯館の見学になりました。展示による堺の街や堺と関連した人物の紹介が充実しており、これを眺めながら説明をお聞きする事でとても勉強になりました(写真10,11)。利休の茶会の料理・菓子を再現した興味深い展示もありましたョ(写真12)。
最後に立礼茶席南海菴でお菓子とお抹茶を頂戴致しました(ここも予約を入れておきました)。三千家が分担されているようですが、当日は表千家の担当でした。流麗なお点前で美味しいお抹茶を点てて頂き、旅の疲れが一気に吹き飛びました。
鎌倉時代(12世紀末~1333年)の前半では、喫茶は禅に裏打ちされた薬用でした。中国禅院での生活規範を定めた禅苑清規ゼンエンシンギに茶礼があり、日本からの留学僧(栄西・道元・大応国師などもそうです)がこれを日本に定着させたと推測されています。室町時代(1336/1338~1573)になると公家・武家・寺社には会合に用いられる会所が発達し、唐物を使ってお茶を飲んだり和歌・連歌などの芸能の場として使われました。この時代に書かれた喫茶往来には後の茶事の原形が既にみられます。
室町幕府の将軍邸の会所は同朋衆が飾り付けをしました。同朋衆は剃髪・帯刀で武家・公家に仕える半僧半俗で、なかには連歌や作庭や立花などに優れた者もおり、茶の湯も仕事の一つでした。有名な君台観左右帳記は同朋衆の能阿弥(相阿弥の祖父: 1397~1471)/相阿弥(1472~1525)の編とされています。千利休の祖父田中千阿弥は室町幕府8代将軍足利義政の同朋衆で(晩年は堺に隠居)、利休は幼少から茶に触れていたようです。またわび茶の創始者である村田珠光(1423~1502)は京都で能阿弥に茶を学びました。
喫茶の風習は徐々に普及して一服一銭と呼ばれる門前の茶売りを出現させ、名所や芝居小屋にも茶屋が設けられました。武野紹鷗(1502~1555)は堺の商人で、若いときに京都で和歌・茶の湯を学び、後に堺に帰って豪商達に茶の湯を伝授しました。
堺は奈良の外港で、早くから国内の物流の中継地として発展し、15世紀に遣明船の発着港となって中国や東南アジアなどとの交易により国際貿易港として繁栄します。ここには様々な人や物が集まり、経済が活性化し、茶の湯・連歌・能楽などの文化が発展しました。また鉄砲はポルトガルから種子島へ伝来しましたが、堺の商人はいち早く島を訪れてその製法を習得し、瞬く間に日本一の鉄砲生産地になりました。
このように莫大な富が蓄えられていた堺では、会合衆と呼ばれる裕福な有力商人達は大名に支配されない自治都市を築いておりました。会合衆は名物茶器を集めたり、邸宅の奥に草庵風茶室を作って茶の湯を楽しんだようです(市中の山居)。会合衆は36人おり、その中でも特に有力だったのは倉庫業を生業とする10人の納屋衆とされているようです。会合衆の茶人には能阿弥の孫弟子で利休を武野紹鷗に推薦して弟子入りさせた北向道陳(1504~1562)、天王寺屋会記で有名な津田宗及(?~1591)、織田信長の天下統一を側面から支えた今井宗久(1520~1593)、利休の高弟で「山上宗二記」で名高い山上宗二(1544~1590)などがおり、千利休も会合衆の一員になっていたようです。
この頃、大徳寺の一休宗純(1394~1481)・養叟宗頤ヨウソウソウイらが新興都市堺に禅宗を布教し、後に古嶽宗亘コガクソウコウは南宗庵を開きました。これを嗣いだ大林宗套ダイリンソウトウ(1480~1568)は、和泉・河内の代官である三好長慶(1522~1564)が父の菩提を弔うために寺観を一新して創建した南宗寺の開山となり、武野紹鷗、今井宗久、千利休ら多くの茶人が帰依します。その結果、茶の湯と禅、堺と大徳寺が強く結びつくことになりました。
堺のまちは茶の湯の歴史を知る上で重要なところなのですね。今回は半日の訪問でしたから、ほんのちょっぴり堺の雰囲気を味わっただけでした。それでも後から色々勉強するキッカケになりましたので、良しとしたものでしょう。