茶道の大成者である千利休は、生涯を通して大徳寺に参禅し修行を続けたとされています。大徳寺は洛北にある臨済宗の禅宗寺院で、元は南浦紹妙(なんぽじょうみょう)(大応国師)の法嗣である宗峰妙超(大燈国師)が叔父の武将・赤松則村から与えられた草庵(大徳庵)で、花園法皇が宗峰妙超に帰依したところから草庵を大徳寺として祈願寺になりました。大徳寺は武野紹鷗・千利休・小堀遠州をはじめ多くの茶人と関係があり、有名な茶室も多く残っています。
茶道の流派である裏千家・表千家・武者小路千家の三千家は利休直系の家元ですね。江戸千家流祖の川上不白は表千家七代如心斎の弟子、薮内流の流祖薮内剣仲は武野紹鷗門下で利休とは兄弟弟子、遠州流の小堀遠州は利休の弟子・古田織部の弟子、石州流流祖の片桐石州は利休の長男・千道安の流れを汲む桑山宗仙の弟子、宗徧流の流祖山田宗徧は千家三代千宗旦の弟子、その他にも流派は多数あるようです。
禅宗は釈迦の一番弟子の迦葉(かしょう)が開祖とされています。その継承者の第28祖菩提達磨が六世紀前半に中国北部を訪れ、中国における禅宗の開祖になりました。その六代目慧能は中国南部に普及した南方禅の創始者で、この南方禅は現在知られている最初の禅の教えとされています。
唐の時代は団茶(固形茶)が主流でした。蒸したお茶の葉を臼でついて団子状にし、米・生姜・香辛料などと一緒に煮たのです。宋の時代になると粉茶(抹茶)が流行するようになりました。南方禅の一派では、僧侶たちが菩提達磨の像のl前に集まって「一つの鉢に入れたお茶を皆で飲む」というお茶の儀式を作り、これが現在の茶道の原点になりました。また仏教徒は長時間瞑想する際に、眠気を防ぐために茶を活用したようです。
日本に禅宗を初めて伝えた栄西(ようさい)(臨済宗黄龍派)は、南方禅を学びに宋に渡り、1191年に茶の種を持ち帰りました。栄西の記した「喫茶養生記」に「抹茶法」が紹介されています。「喫茶養生記」はその当時の最先端の医術の紹介であり、入宋して自ら修めた医術による医療革命を宣言している書でもあるのですね。蛇足ですが、この本にはお茶とともに桑の木の効用も詳述されており、興味深く拝読いたしました。
ところで鎌倉時代から室町時代の戦乱の世に勢力を伸ばした武士は、禅宗を学び、茶を飲む習慣を大切にしました。15世紀になると将軍足利義政の保護のもとで茶の湯が確立し、非宗教的な営みとなりました。室町時代中期に奈良の僧侶である村田珠光は草庵式茶室を考案し、16世紀に堺の町衆出身の武野紹鷗は侘茶の精神を導入、そして同じく町衆出身の千利休は村田珠光の弟子である北向道陳と武野紹鷗の教えを受けて茶道を大成しました。
日本の禅宗は栄西(前述)や、応・燈・関の大応国師-大燈国師(前述)-関山慧玄(楊岐派)らの臨済宗、道元が伝えた曹洞宗、臨済宗から分かれた黄檗宗があります。茶道が臨済宗と関連が深いことは、上述した歴史から明らかです。茶道家元は代々臨済宗本山に参禅し、得度して僧侶の資格を得ています。黄檗宗は中国臨済宗の僧・隠元に始まり、その教義・修行・儀礼は日本臨済宗と異ならないとされています。道元は天台宗の延暦寺と三井寺、次いで臨済宗の建仁寺と遍歴し、その後宋へ渡りましたから、臨済宗とも関連があるのですね。
茶道は「茶禅一味」、禅の境地で行うものとされています。露地や茶室、茶室内の掛物・置物・お道具類一切、作法も含めて総てに通じる根本なのですね。「一切茶事にて行い用うる所、禅道に異ならず」、虚飾を排し、少しの不足もなく、無駄もなく、一心に実践する.....「すなわち、迷悟あり、修行あり」の精神でしょう。