「高麗茶碗」と改まっていうと何だか縁遠いように感じますが、現代作家の作品や観光地の土産物屋さんに並んでいる抹茶碗にも高麗風の茶碗が少なくありません。日本の茶道の歴史は400年以上もあり、その間に抹茶を喫するためのお茶碗は星の数ほど考案されて今日に至っているわけです。その一番最初のほうに天目や高麗茶碗は位置していますから、形状だけからいえば現在作製されている作品の多くもそれらに類似していて当然ですね。
そういうわけで、高麗茶碗は現在の抹茶碗の一方の原型をなしているといえます。もう一方が楽であり桃山陶ということになるのでしょう。
抹茶を喫するための器という点では、形、色、外観、持った時の手触り、重さ、抹茶の緑との相性、口にした時の感じ、飲み終わった後の茶溜まりの表情、洗って収納するときの具合、実に多くの要素があります。私は実用的な茶碗しか求めませんから、お茶を点て、喫し、洗って、と実際に使ってみての評価になります。これは店頭で見た時の印象とは残念ながら違うことも多いのですね....。
お茶が入っていない状態で観察するときには、まず外観を見ることになるのでしょう...外を全周ゆっくりと眺め、次いで見込を見て、ひっくり返して高台を点検して...窯キズや釉薬の削げも気になるし...。一方、お茶を点てた時はどうでしょう。茶碗の外観を大ざっぱに見て、抹茶の泡立ち具合はどうか、抹茶と見込の表情とのコントラスト、飲み終わった後の茶溜まりの様子...見ている所は大分違うのですね。
お茶を頂く回数が多くなるほど、実際に使用したときの印象のほうが大事に思えてくるものですね。お茶碗の価格とは決してパラレルではありません。実物を手に入れて使用してみないと分からないところもありますが、経験を積むことによって「もし手に取ってみることが出来ればある程度推測できる」と現在は感じております(もちろんネットでは無理です)。こうなるまでには随分勉強代もかかりました...。
真熊川茶碗(口径13.5~13.0cm・高さ7.7~7.5cm・高台径5.7cm・重量333g)
内箱 溜塗 蓋表「白雲」金粉字形 貼紙「真熊川」
覆紙「眞熊川 茶盌」
外箱 透漆塗
伝来 渡辺家(岐阜)
大正名器鑑には「熊川には眞、鬼二種の外に後熊川、滑熊川等の類あれども、眞、熊両手最も古く、眞は上品にして作行景色共に大人しく、鬼は下作なれども景色面白く、作行手強きを以って勝り、時として眞鬼何れとも区別し難き者なきに非ざれども、多くは一見して之を識別する事を得べし。」とあり、真熊川4碗と鬼熊川2碗が引用されております。
浅川伯教は「(熊川茶碗は)李朝中期に主に作られ、約二百年の長きにわたって、飯碗、汁椀に用いられた。形は丸端反りというのが適当かもしれない。」「焼き上がるまでに、中心に弱点があって割れ易いので、高台を深く削り、見込みを半乾きの時によく押さえておく。茶人のいう「鏡落し」は必要上から作るのである。」「地方窯のものは、高台及び高台脇に釉がない。高台脇を粗く削って置けば、乾かすときに、上の方とほとんど同時に乾き、器体にひびができない。」「慶尚南道熊川に日本の移民がいたころ、この地から盛んに日本に渡っていたが、文禄の役に、咸鏡北道明川地方に行った日本の武将が持ち帰ったものも、大ぶりであるが、やはりこの形であった。」「日本に多く渡ったのは文禄の役である」と述べております。
林屋晴三 責任編集「高麗茶碗」第3巻には三十碗ほど実見された内から真熊川8碗、鬼熊川12碗、後熊川1碗が掲載されております。「注文茶碗といえば文禄・慶長役以降...に始まるように考えられていたが、多くの高麗茶碗を手にして観察していると...天正年間(1573~1592)頃から注文が行われていたのではなかったかとも思われる」「熊川茶碗の多くは文禄・慶長役以前...に焼造されたものであった...」「”うのはな”・”鬼熊川”・”白菊”などは鬼熊川というよりも真熊川とするほうが妥当のように思ったのであるが、先人の書付にしたがって鬼熊川として編集」など示唆に富む記載がみられます。
高麗茶碗 論考と資料には「熊川」10碗、「真熊川」7碗、「鬼熊川」12碗、他2碗の銘・寸法・重量・伝来等が一覧表になっていて有用です。最近出版された茶の湯の茶碗 第二巻 高麗茶碗には真熊川茶碗5碗、熊川茶碗1碗、鬼熊川茶碗2碗が収載され、他の本に比べて各方向からの写真が豊富に掲載されており、全体像を知るのに大変役立ちました。
このお茶碗は丸端反りの形、見込みの小さい鏡と目跡、高台とその周辺が土見せになっており、光沢ある釉には細かい貫入が入るなど、真熊川茶碗に記載された特徴が見られます。一方、真熊川としては小ぶりで、サイズや色調からは玉子手茶碗に近似しているように思われます。大正名器鑑にも玉子手”秋風”に「頗る熊川茶碗の作行に似たり」の記載があります。
竹節状の高台は箆削りを駆使した変化に富んだ作行で、滑々に磨かれた畳付きに向かって少しすぼまっています。一方、滑らかに削り込まれた高台内には繊細な縮緬皺と端正な巴の兜巾が見られ、釉薬が微かに掛かります。この辺りは陶工の技・センスが光りますね。全くの無作為とは思えません...単なる飯碗・汁椀にしては手が込んでいる...織豊時代の茶人の趣向が反映されている?...古の朝鮮古窯の佇まいに思いが巡ります。
古手の高麗茶碗に共通した特徴なのでしょうが、このお茶碗も乳白色、ベージュ、淡青色、褐色~灰色の斑点、など器肌に様々な色調が混在していて多彩なのですね。竪樋も時代を反映した景色になっております。白雲の銘は白色調で多様な表情に惹かれた命名なのでしょうね。
黄伊羅保茶碗 (口径13.3~13.8cm・高さ6.8~7.2cm・高台径5.3cm・重量230g)
箱 桑木地 蓋表「黄伊羅保」銀粉字形
蓋裏 貼紙「さまざまに こころぞとまる
宮城野は 花の色々 虫乃声々」 小堀宗明 筆・印
覆紙「黄伊羅保茶盌 宮城野 宗明和歌」
伊羅保茶碗は高麗茶碗の中では人気があるものの一つです。伊羅保には古伊羅保、黄伊羅保、片身替伊羅保、釘彫伊羅保などの種類があります。このうち黄伊羅保、釘彫伊羅保は従来窯では確認できず、梁山(ヤンサン)の借用窯で焼き始められたと推測されています。倭館に釜山窯が成立する以前に焼かれたと推測さていますから、400年程は経過しているのですね。
大正名器鑑には「猶ほ此茶碗に就て、我が茶人中に不思議なる習慣あるは、其素質の粗雑なるに關せず、微細の疵をも之を厭ひ、他の井戸茶碗とに於て、竪樋又は疵繕ひなどを意とせざるに反して、伊羅保に於ては、最も厳重に之を嫌忌し、疵の有無の價格に關係する、他の茶碗と同日の談に非ざるは、素質の粗雑なるが故に殊更其保存の完全を期する意味にてもあらんか。」とあります。
黄伊羅保茶碗の形は一定しており、「高麗茶碗-論考と資料」によると、寸法は口径13.5~14.5cm・高さ7cm前後・高台径5.5cm前後のものがほとんどで、重量は240~275gが多いようです。松平不昧公が所持していた「女郎花」や茶道具商の重鎮戸田鍾之助氏所蔵の「橘」がしばしば引用されています。黄伊羅保は他の伊羅保茶碗と比べて小型軽量ですから、一般にはお薄用なのですね。
この黄伊羅保茶碗も多くの伝世品とほぼ同じサイズですが、若干軽量なのは薄作のためでしょう。末広形で、高台は竹節に削られ、輪高台の内には小さく低い兜巾があります。高台脇にヘラ削りが一回り入り、伊羅保肌の腰から胴には繊細な水挽の跡がみられ、一ヶ所火間も出ています。外側口縁近くに筋目が立ち(「玉縁」というそうです)、口縁には樋口(とよぐち:手で平にならすこと)・べべらが見て取れます。畳付には砂状の目跡が四つ残っていますが、見込みの目跡はハッキリいたしません。薄造りなためか、懐は深く感じますね。
何といっても見込みの明るくて爽やかな黄色い肌が魅力的です。さらに黄色の色合いも複雑で多彩です。そして地肌は特有のイライラした手触りで変化に富んでいます。見て、触って、鑑賞するだけでも十分楽しめるのです。「韓国で作られた古い伝世品の伊羅保と同じ茶碗を現在の日本で作るのは至難の業といってよいでしょうし、このことは伊羅保に限ったことではなく高麗茶碗全般についてもいえることです」という谷 晃 先生の記述(参考文献参照)は十分うなずけます。
実際にお茶を点ててみますと、お抹茶のグリーンが引き立ちます。飲み終わった後にお薄の流れ落ちる様、切れ、も良好です。畳付と高台内はさすがに歴史を感じますが、その他は400年経っているとは思えない色艶で、それはそれは大切に扱われてきたことでしょう。遠州流十一世小堀宗明宗匠(1888~1962)により、「堀川百首」源 俊頼の歌から「宮城野」の歌銘が添えられています。
高麗茶盌 (口径12.4~12.6cm・高さ8.9cm・高台径5.0cm・重量302g)
箱 桐木地 蓋表 「高麗 茶[石完(わん)] 一花」 墨書
蓋裏 「木がくれを 志らでや風の 残すらん
若葉乃中に 混じる一花」 墨書 田村堯中 筆・印
覆紙 「高麗茶盌 銘 一花 箱 堯中」
総釉掛けで熊川形の端正な形のお茶碗です。胴がふっくらして口縁が端反りのため、手持ちが良くて嬉しいですね。高台は素直な輪高台で、兜巾が僅かにみられます。目跡は畳付に微かに四ヶ所みえ、見込みにはありません。高台脇は滑らかで、腰に一回りシャープなヘラ削りが入り、胴の繊細な轆轤目へと移っていきますから、目を楽しませる工夫も十分です。見込みを見ると、茶溜りにはうっすら巴模様も入っていますね。
オレンジがかった枇杷色とその上に薄いブルーをかけたような色調が背景となり、そこに濃い青色の模様が浮かんでいます。この濃青色の窯変は「小川の流れ」「池」にも見えてチャームポイントのように思います。また白い釉溜りが胴には玉状に散り、腰から高台には雪崩れていて本当に多彩ですね。
[石完(わん)]の漢字は主に青瓷のお茶碗に用いられたということです。高麗茶碗に小堀遠州が書付したものを拝見しますと、専ら茶[石完]と墨書されているようですから、遠州流のお作法になっていたのかもしれませんね。
蓋表には「高麗茶碗」と書かれておりますが、購入時は「御本茶碗」と紹介されました。大正名器鑑には「古來茶人は分類不明なる茶碗を、単に高麗焼又は高麗物と稱して、後世の批判を避くるを常とし」「高麗の名稱は、比較的多數多様の朝鮮茶碗を包含し、又殊に支那窯の感化を受けたる陶器をも、其中に見出すこと多しと知る可きなり」の記載があります。
とても綺麗でモダンなお茶碗です。「倭館関係の初期のお茶碗には”高麗茶碗”と箱書してある」との記述もありますので、あるいは倭館窯の初期の焼成かもしれません。御本茶碗は極めて多様で膨大な量が焼かれたようですから、もしかすると見たこともないような作風のお茶碗に出会えるかも....秘かにそんな思いも抱きました。
蓋裏には遠州流8世家元・小堀宗中(1786~1867)の門下で上野寛永寺代官を務めた旗本、田村堯中により歌銘が添えられています。明るい枇杷色に玉状の釉溜まりのある景色を見立てたもののようです。遠州流は「わび・さび」に美しさ・明るさ・豊かさを加えた「綺麗さび」が特徴で、客観性の美・調和の美を作り上げました。このお茶碗もその流れに適ったものでしょうか...。
高麗茶碗の美術書を見ますと、箱の蓋裏に和歌が添えてあるものを時々みかけます。自ら所持したときに添えるものか、持ち主に依頼されて書き付けるものか...。松平不昧や小堀遠州の歌銘・書付を拝見しますと、自身で所持した際にその感動や思いを歌にしたためて記録したもののようですが...。