対馬藩と高麗茶碗

文禄・慶長の役により日本と朝鮮との国交は途絶えましたが、対馬島主 宗義智の必死の努力により徳川家康から朝鮮御用役を拝命し、正式に外交交渉に取り組みました。1607年徳川将軍に対する第1回朝鮮通信使が来日して講和が成立し、釜山浦に倭館(豆毛浦倭館: 古倭館)が設置されます。1609年己酉(きゆう)約条が成立して倭館への渡航が公認され、公貿易(朝鮮にない銅・錫・丹木・水牛角などを朝鮮政府が木綿で買い上げる)と私貿易(対馬藩は生糸・絹織物・朝鮮人参・虎皮など日本で高額に売れるものを求めた)が活況を呈するようになります。

 

日本の将軍と朝鮮の国王とが国書を交換するため、国書を運ぶのが朝鮮通信使でした。江戸時代に計12回来日し、朝鮮からの使節団は400~500人で、これに対馬藩の随行員その他を加えると5,000人にも及び、はるばる江戸まで往復したのです。これとは別に津島藩との実務的な折衝を行う「訳官使」「問慰行」と呼ばれる50~60人規模の朝鮮使節が存在し、江戸時代に60回近く派遣されました。一方、対馬藩からは年8回の「定例送使」と臨時の「差倭」が派遣されました。

 

 高麗茶碗の入手は、対馬宗家からの「求貿差倭」が外交書簡を携えて釜山の東萊(らい)府に請求し、朝鮮国礼曹から国王へ伝えられて許可がおり、陶土・薪の供給を受けて釜山近郊の陶工に作陶させるという流れでした。少数ですが日本からの役人や商人が個人的に購入することもありました。宗家からの伝播は宗家と関係が深い武家・寺院・御用商人が有力な仲介者になっており、相国寺や小堀遠州の名前が上がっております。

 

1637年以降は使者・公貿易・私貿易が切り離されて私貿易主体の運営となり、対馬藩が渡航をコントロールするようになりました。倭館は対馬藩から派遣された「館守」が統括し、外交文書は京都五山から派遣された僧侶が担当するようになります。倭館が活況を呈するようになると、1万坪の古倭館が狭くて不便であるため、日朝合同で1675年3月~1678年4月まで3年の歳月をかけて建設した10万坪の草梁倭館(新倭館)へ移転しました。

 

 「御本茶碗」は借用窯で作られたものと、1639年~1718年に倭館の外(1939~)・内(1644~)の窯(釜山窯)で焼かれたものに分けられ、日本からの注文茶碗とされています。釜山窯は旧倭館(約40年)・新倭館(約40年)の80年間、対馬藩士が運営にあたりました。倭館は女人禁制のため、総ては男手で作成されたことになりますね。

 

釜山窯では徳川将軍の請求として東萊(らい)府に陶土・薪を無償で請求しました。数百石(一石=一升瓶100本)の土を慶州・蔚山・河東・晋州・金海・密陽・梁山等2~30里から運搬させるわけで、この入手は困難を極めたようです。また陶土の不足分は訳官を通してかなりの高額で「内証土」を購入しました。その後、釜山近郊の轆轤師や番師を自前で雇って製品を焼成し、日本に運送しておりました。一窯開くたびに藩財政は持ち出しになっており、対馬藩の財政的な余裕があった最盛期には3年に1回開窯していたということです。窯が閉じられた後は工人たちは各々の窯に戻って自分たちの製品を作りました。そのため釜山近郊の民窯で御本と類似のお茶碗が焼かれていたとの推測があります。

 

 「半使(はんす): 判司」は朝鮮使節の通訳を指す役職名です。朝鮮使節が日本に渡る際、同行する通訳者が予め釜山近郊の工人に日本向けの陶磁器を造らせ、対馬に持渡りしたお茶碗が「半使(茶碗)」と呼ばれています。これらは対馬藩が総て買い取っていたのですね。1672年~1678年頃が最も多く、1回に数百~数千個を購入しておりましたが、量があまりにも多く品質にもむらがあって必ずしも茶器として使えるものばかりではなかったため、1681年に持ち渡りを禁止し、品質がよくて茶の湯に適う茶器を釜山窯で作るように方針転換したのです。

 

尚、「本手半使」は日本からの注文以前のものを指し、ひずみのない形で窯変は薄青色を見せ、高台は厚めで高いようです。一方「御本半使」は薄手でひずみのあるものが多く、窯変は赤みが勝ち、鹿の子が広い範囲に及んでいるようです。