浅川伯教・巧 兄弟と朝鮮陶磁

日本と隣国の中国・朝鮮との歴史は複雑であり、現在までその遺恨が残っています。19世紀後半、アジアの多くの国々が欧米諸国の植民地となった一方、日本は植民地化を免れました。清国は朝鮮を属国とみなしていましたが、1894年の日清戦争で日本が勝利すると、欧米列強の清国侵略が起こりました。1900年の義和団事変をきっかけにロシアが満州を占領したため、これに反発して1904年日露戦争が勃発し、これに勝利した日本は1905年日露講和条約を結び、1910年大韓帝国併合を行いました。

 

浅川伯教(1884~1964)は1913年に小学校教諭として朝鮮に渡りますが、主要な関心は美術で、まもなく朝鮮白磁に出会いました。1914年に柳 宗悦(1889-1961)を訪ねた折に朝鮮白磁の壺を土産に持参しています。1919~1922年東京で彫刻を学び、朝鮮に帰って彫刻・絵画作品を製作する一方、朝鮮白磁の研究を再開しました。1928年からは啓明会の資金援助を受け、1947年11月日本に引き上げるまで研究は続いたのです。また陶芸家であり、茶人でもありました。

 

 実弟の浅川 巧(1891~1931)は1914年朝鮮に渡り、朝鮮語を学びつつ朝鮮林業試験所に勤務します。養苗が専門で、朝鮮語が堪能なうえ身なりも朝鮮人の恰好で、しっくり朝鮮に溶け込んでいたようです。仕事の傍ら兄伯教の仕事をサポートし、また伯教・柳 宗悦とともに朝鮮民族美術館の設立に尽力しました。

 

浅川伯教は、実弟である巧の協力もあり、現在ではほぼ実行不可能な朝鮮半島700ヶ所あまりの古窯跡の調査を行いました。さらに並行して日本の窯業地も調査しています。また日本に伝わる多数の高麗茶碗を観察分析し、最終的に朝鮮白磁の歴史をまとめあげました。以上の功績により「朝鮮古陶磁の神様」と呼ばれています。

 

殆ど資料のなかった時代に、現地に赴いて慣れない言葉で質問しながら手探りで古窯跡を探し求め、陶磁器片を精力的に収集してその地図を作成した苦労は並大抵ではなかったでしょう。古くからの陶磁器作製様式が残っている窯業地では、そこで作陶を実践し「製作上の常識」を会得したようです。朝鮮・日本の関連資料も十分検索しているのですね。

 

 日本で発展した独特の文化である茶道、古の茶道の宗匠が見立てた高麗茶碗、そのほとんどが日本に渡ってきており、現地に残っているものは少ないようです。そうすると研究するにも日本人の方が適していたのかもしれません。浅川伯教と益田鈍翁(1848~1938)との交友の様子も興味深く拝読いたしました。

 

著作を読んでみると、いわゆる高麗茶碗の概要がおぼろげながら把握できました。しかしその内容を理解するにはかなり広範な基礎知識が必要だと感じました。私は半分も分かっていないでしょう...日本史・世界史の知識も浅く、作陶の経験もありませんから.......。

 

高麗茶碗についての入門書・専門書は沢山出ています。最近出版された本を購入したところ浅川伯教の本の引用があり、私もそれで購入してみました。今回浅川兄弟の本を読んでみて、これまでに出版された本の著者らは総て浅川兄弟の研究を参考にしているものと思いました。