現代作家の高麗茶碗

萩にしても唐津にしても、現地の土と釉薬を使って高麗茶碗に匹敵する焼き物を追い求めたという歴史があります。近年、韓国や日本の陶芸家の中には高麗茶碗そのものを再現・作製しようとする先生方が少なからずおられます。日本においては、土を現地(韓国)から取り寄せて使用している先生もおられますね。

 

高麗茶碗を再現するには、多くの茶碗をガラス越しに見るだけではなく、実物を手に取って観察したほうが良いものが作れるように思われます。高名なお茶碗は博物館や寺院等に収蔵されているものも多いですから、間近に観察出来る陶芸家は決して多くはないように思います。ある種の「出会い」も必要かもしれませんね。

 

私は高麗茶碗の中では井戸茶碗が好きですから、かねてより出来れば一碗欲しいと思っておりました。よく言われる「自分へのご褒美」としてですね。私の場合は普段使いにすることが前提ですから、現実的には数が多いといわれている御本や半使の中から求める(井戸も存在するようですが詳しくは知りません...)、現代作家の井戸作品から選ぶ(こちらは沢山あるようです)、のどちらかになるのでしょう。

 

 「井戸茶碗」と一口にいっても、本やネットでみていると実に多種多様なものが目に入ってきて困惑するくらいです。またブランド・ニューになりますと、現代作家の作品といえども決して安価ではありません。いずれにしても後で後悔しないよう慎重に選定を進める必要がありますし、この作業は私にとっては大変贅沢で楽しい時間でもありますね。

共箱 蓋裏 「井戸茶盌 不東(護熙 印)」 

      (口径15.0cm・高さ7.2~7.8cm・高台径5.5cm・重量306g)

 

細川護熙先生の井戸茶碗です。枇杷色に青白い色調を帯びており、高台から口縁にかけての直線的な開き、強い轆轤目の出方などより青井戸茶碗に分類されるものだと思います。薄作りで、見込みの杉なりの削り込みは見事です。白い釉薬が口縁から高台にかけてなだれており、見込みには筋雲のようにたなびいている...また黒い斑が胡麻を振ったように散り、変化に富んだ景色を作りだしています。

 

貫入の入り方といい、梅華皮の変化に富んだ出方といい、申し分ありませんし、兜巾も立っています。口縁は綺麗な正円形で、私好みなのが嬉しいところです。高台は片薄気味で、僅かに斜めに切られているためか、器の高さが7.2~7.8cmと均等ではありません。天下の喜左衛門も高さが8.2~8.9cmと不均一なのですね。まさか、それを狙って作成したのではないとは思いますが....。

 

 実際にお茶を点ててみますと、とても点てやすいのですね。お茶碗の形状がそのように出来ているのでしょう。またお抹茶が入ると、器肌がほのかにピンク色に染まって大変綺麗です。上品で洗練の極みという印象です。手取りは軽やかで、お茶が美味しくいただけますから、実用性も十分です。我が家では「不東盌」と名付け、記念すべき高麗茶碗の第1号となりました。

 

褒めてばかりいるようですが、本当に良くできていて感心するほかありません。下に記載した本を読みますと、護熙公は名だたる高麗茶碗を実際に見て、あるいは手に取って、そこから得られたインスピレーションをもとに作製しておられるように推察いたします。このお茶碗にも、そうした背景が宿っているのでしょう。

 

現代作家の高麗茶碗に私たちは何を期待するか...。人それぞれでしょうが、「写し」としての期待はあるとおもいます。喜左衛門や細川や柴田などは生涯手に触れることはないでしょうから、それらに雰囲気の近似したものを手にする期待はありますね。一方、作家からすると写しだけではなく、そこにオリジナリティーを付加する、アイデンティティーを示す...。護熙公は本阿弥光悦のような立場のようですから、束縛や拘泥のない自由な発想で作陶されているのでしょう。

  

www.morihiro-hosokawa.jp/

www.nara-yakushiji.com/ 

 

細川護熙 著「不東庵日常」小学館 2004年6月10日

細川護熙 著「晴耕雨読」株式会社新潮社 2007年4月30日

花塚久美子 編集「和楽ムック 細川護熙 閑居に生きる」株式会社小学館 2009年6月17日

田中康嗣 編集「細川護熙 晴耕雨読と一時一事」J PRIME pp20-43

                   株式会社大丸松阪屋百貨店  2019年4月1日

共箱 蓋表 「伊羅保茶盌(彌 印)」 

   蓋裏 「彌弌作( 僊山 印)」 

      (口径14.0cm・高さ6.3~6.6cm・高台径5.0cm・重量275g)

 

文化勲章作家、楠部彌弌先生(1897~1984)の伊羅保茶碗です。先生は京都出身で、京都市立陶磁器試験場付属伝習所に入られ、卒業後は京都の粟田山、3年後に粟田口で作陶を始められました。その後、41歳で岡崎、68歳で山科に工房を開かれましたが、一貫して京都に居を構えての作陶生活でした。共箱蓋裏の印「僊山」は、日本画家を志した父君の画号なのですね。

 

この楠部伊羅保を伝世の伊羅保茶碗と比較すると、大きさ的には最も小型の部類に属する黄伊羅保の伝世品に類似しているようです。色調はチョコレート色の地にキャラメル色の釉薬を薄く掛けた感じで、石ハゼにより手触りはザラついています。茶溜は一段深く削りこまれ、端反りの口縁にはベベラが嫌みのない自然な雰囲気でみられます(伊羅保の共通点は”伊羅保釉が掛けられている”ことですが、発色や釉調は様々で、用いる土によってもかなり雰囲気は異なるようです....)。

 

 整った形状の輪高台には複雑な起伏・削りが施されており、また釉景色も極めて多彩で、月並みな文言ですが大変感銘を受けました。大きな兜巾の横に「彌弌」の押印が鮮明です。「正直で、真摯で、しかも人一倍研究熱心の粘り屋であった(河北倫明)」「いつも穏やかで、ものしずかな人だった...どんな時でも相手を怒らない徳のある人だった(加藤唐九郎)」

 

下に引用した「楠部彌弌遺作展」の図録に、66歳の時に制作された伊羅保茶盌が掲載されております。このお茶碗はそれとよく似ておりますから、同時期に作成されたものかもしれません。チョコレートとキャラメルのツートンカラーにお抹茶を点ててみますと、ヨモギ色が見事に映えて相性は抜群でした。

 

「技術だけでもなく、知恵だけでもなし、勿論、感覚だけでもない。つくる人たちの心が問題となる。その人の持つすべてを作にぶつけてこそ感動深いものが生まれるだろう..."人ができて物が生まれる"」 (先生の初めての作品集に添えられた文章より引用)

 

京都は茶道文化の中心地であり、楠部先生の略歴を見ますと千家との関わりが記述されていますから、抹茶碗の制作には並々ならぬエネルギーを注いでおられたと思います。それは、81歳で文化勲章を受章された後、85歳の時に「楠部彌弌茶碗展」を開いておられることからも伺えますネ。

 

伊羅保茶碗は総てが日本からの注文品とされています。伊羅保が文献に登場するのは1659年の茶会記の「高麗伊羅保」が最初で、その僅か半年後の1660年に「粟田焼伊羅保似」の茶碗を南禅寺天授院の茶会で見かけたという記録があるようです。こうした京都―伊羅保ー粟田の関係を知ると、楠部先生の伊羅保茶碗には歴史の重みを感じ、感慨深い気持ちになりました。

 

朝日新聞大阪本社企画部 編集「現代陶芸の巨匠 楠部彌弌遺作展」朝日新聞社 1986年