日本の陶磁器の歴史において、文禄慶長の役はエポックメーキングの出来事でした。文禄の役では、羽柴秀吉の指揮のもと、宗義智(対馬)・小西行長(肥後)・松浦鎮信(肥前)らの一番隊18,700人、加藤清正(肥後)・鍋島直茂(肥前)ら二番隊22,800人、黒田長政(豊前)・大友義統(豊後)ら三番隊11,000人、毛利吉成(豊前)・島津義弘(薩摩)ら四番隊14,000人、福島正則(伊予)・戸田勝隆(伊予)ら五番隊25,100人、小早川隆景(筑前)・毛利秀包(築後)ら六番隊15,700人、毛利輝元(安芸) 七番隊30,000人、宇喜多秀家(備前) 八番隊10,000人、羽柴秀勝(美濃)・細川忠興(丹後) 九番隊11,500人、合計158,800人と、他に水軍9,200人が1592年4月13日朝鮮に出兵したのです。
秀吉の野望は朝鮮・明国を制圧し、明国皇帝となって北京の王城に君臨するというものでした。日本軍は短期間に北進して京城(ソウル)・平壌まで制圧しました。当初劣勢であった朝鮮は明国に援軍を要請します。一方、平壌まで進軍した小西行長は、明国の使節と講和について話し合い、明国の返事を待ちました。明国はこれを欺き、1593年1月密かに出兵して日本陣を攻撃しました。
日本軍と朝鮮・明国連合軍との戦いに変わって、戦況は一気に変化します。日本の進軍は点と点との結びつきで、強固ではありません。日本軍は次第に押し戻され、1593年1月8日に平壌から退去して京城に籠り、ここで4月9日連合軍との講和会議が開かれました。そして4月19日に京城から撤退して南下し、南部の海辺の蔚山・熊川・東萊・金海・巨済など16か所に城を築き、凡そ5万人が分かれて駐屯し長期駐留に備えました。
その後、明国との講和になりますが、その間1593年6月晋州城の戦いがありました。1593年6月に小西如安ら日本使一行は釜山を発ち、9月遼陽に着き、翌1594年12月漸く北京で講和の議に入りました。原案を検討後、1595年4月日本使一行と明国一行は京城に到着します。同年9月小西行長は朝鮮軍との講和の議に臨みました。1596年7月日本軍は釜山の4屯を残して帰国します。その後、日本・明国の一行に朝鮮の使臣が加わって、同年9月2日伏見城で秀吉と会見致しました。明国の冊書は秀吉の意に全く沿わない内容で、秀吉は1597年2月21日に再び朝鮮出兵を命じました(慶長の役)。
加藤清正・小西行長・宗義智・松浦鎮信・有馬晴信・黒田長政・毛利吉成・毛利勝永・鍋島直茂・鍋島勝茂・島津義弘・長曾我部元親・藤堂高虎・池田秀氏・加藤嘉明・蜂須賀家政・生駒一正・脇坂保治・毛利秀元・宇喜多秀家・小早川秀秋・立花宗茂・小早川秀包・浅野行長ら総計147,500人の大軍でした。明国は直ちに派兵を決定し、京城を目指す日本軍を金鳥坪で撃退しました。しかし、元々が講和のための威嚇出兵で、南辺各地に腰を据えた日本軍は築城に専念します。また米や給金を与えて朝鮮人を築城の労働者として雇い、市場を開かせて食料や衣類などを買い求めました。
日本軍の築いた城は難攻不落で、攻め込んだ明国・朝鮮軍はなかなか攻略できませんでした。加藤清正の蔚山・島山の城、小西行長の順天の城も攻撃されましたが、何とか陥落は免れました。しかし戦ですから双方に多数の犠牲者が出るのは必然です。そうこうするうち、小西行長から明国軍に「日本への撤退」の意向が伝えられました(秀吉の死去によりますが、朝鮮軍は知りませんでした)。明国陸軍はこれを受諾しましたが水軍は聞き入れず、帰国する日本軍の船団に襲いかかって最後の戦が繰り広げられました。
朝鮮を焦土と化し、朝鮮・明国・日本の兵士ならびに朝鮮民間人に多数の犠牲者を出した7年間にわたる戦は、1598年8月18日秀吉の死亡により漸く終結に向かい、同年11月末に日本軍は完全に撤兵したのです。
この戦で日本の武将は、1593年7月~1597年7月までの4年間に集中して、数万人といわれる朝鮮人を日本に拉致・連行しました。様々な分野の技術者たち、中でも陶工は、高麗茶碗の生産者たちも含め、根こそぎ連行されました。徳川幕府が成立し、拉致された人々のうち約6,000人が帰国しましたが、後は日本に帰化したようです。
ご存知のように連行された朝鮮人陶工により各地で陶磁器が焼成されるようになりました。島津義弘の薩摩藩では薩摩焼、鍋島直茂の佐賀(鍋島)藩では有田焼・伊万里焼・古九谷、大村喜前の大村藩では波佐見焼、寺沢広高の唐津藩では唐津焼、黒田長政の黒田藩では高取焼、細川忠興の小倉藩では上野焼、毛利輝元の長州(萩)藩では萩焼、等々枚挙にいとまがありません。江戸時代初期、東インド会社を通して輸出されたMade in Japanの陶磁器、その多くは朝鮮人陶工にルーツがあるのですね。